1994 常識の見本

いわゆる専門家とか素人の区別なしに、ある時期ゴッホに憑かれた人たちは、随分たくさんいる。しかし僕は、まだ一度もゴッホに取り付かれたこともなく、進んでゴッホの絵に関心を払ったこともなかった。

本当に自分に合わない作家であり作品なのか、あるいは人びとが騒ぐものから意識的に遠ざかっていようとする気持ちからか、それらのどちらか、もしくは両方の理由かで僕とゴッホははほとんど無縁の作家であった。だからゴッホの生涯も作品も、僕にとって知識の域を出たことはなかった。

こういう場合、ゴッホ展を見るということは、単なる好奇心からかというとそうでもない。むしろ、いままで自分が遠ざけていたのが、本当に自分にとって、ゴッホの作品は何ものかを与える存在かどうかを、実際の作品の前で確認したかったので見にいったというべきだろう。

同じような見方は、ピカソ展の場合にもあったことを思い出す。そして今度もまた、ピカソ展の時と同じように、自分の見方をふたたび確かめたに過ぎなかった。絵が思っていたより綺麗だとか、そのせいで一般性があるのだということを感じたことまでが同じだった。

作家というのはみなそうなのかもしれないが、僕はことに作品の裏側へまわるのが嫌いだ。人間というものに一番興味をもっているために、僕は作品の裏側へまわって作家を調べたり、あるいは作品の内容とかいう便利な言葉で、絵画の下へ人生の下敷きをおくことを好まない。

おそらく、世上一般に、芸術ないしは芸術家というものに関するそういう常識が通用している事実のために、また、僕たちの近くにいる多くの進歩的な美術批評家すら、そういう常識から抜けだしていないために、僕は、一層いままでのような僕の見方を固執してしまう。

ゴッホは迷惑かもしれないが、彼はそういう常識の絶好の見本になっている。そして僕のように、常識の曇りのない眼をもった人間からみると、彼の作品は過去のものであり、作家としての僕に何ものも与えてはくれなかった。彼よりはゴーギャンの絵のほうが、現代にまでつながる問題をもっている。

(「データベース・リフレクション展 自筆原稿 MAC用 1995.4」というフォルダ内の「自筆原稿19940111」フォルダーより)