1996 「1953 年ライトアップ」展 「実験工房」

「1953 年ライトアップ」展図録より
目黒区美術館1996年

実験工房
山口勝弘

「実験工房」が、一つの集団として活動を始めてから、すでに45年を経ている。もしグループのメンバーが、工房へ向けて集まりだした時期を、前期として含めるならば1948年という時点からになる。つまり半世紀近い以前になる。
しかし今なお、「実験工房」とは何だったのか、どんな活動を行なっていたのかについて、明確な輸郭が摑めない。その集団としての活動期は、1958年頃をもって終りを迎えているが、各メンバーはその後、この工房の実体解明にかまけていたわけではない。むしろ「実験工房」のイデーは、その後の工房メンバーの仕事の中に引き継がれ、時には共同の仕事としてなお活動が続けられているのである。

ただ昨年は戦後50年という年に当り、また近年いろいろな戦後史の回顧が始まり、この正体不明の芸術活動の解明が求められてきた。
今度開かれる「1953年ライトアップ——新しい戦後美術像が見えてきた」展でもそうした機会を与えられて、実体解明を行なわなければならないのである。ところがこのサブタイトルにある戦後美術像というのが問題になってくるのである。すでに現在、歴史を語る場合このような戦後美術像とか、現代美術史という言葉を選ばざるを得ない。しかし美術という枠からこの工房を眺めてみると、その実体はぼやけてしまう。
この最も根本的な理由を解明しなければ、われわれの工房の実体も見えてこない。ということに実は私も最近になって気付いた。
その理由の一つは外部的なもの、つまり社会的なものであり、もう一つは内部的なもの、つまり工房自身にあったのである。ではまず外部的な理由を考えてみよう。先にも述べたように戦後50年経ってみると、日本の戦後美術史は、次第にある枠にはめられ、また何回となく語られることにより、内容的にも一つの物語となってきている。物語が形成されてゆくと、当然いくつかの常套語が生まれ、歴史の真実はある共通認識に集約されてゆく。こういう戦後日本美術史の形成過程の中で、美術という領域を限定する時、すでに「実験工房」の活動領域がそれ以外の領域へ拡がっていたことが災いとなっている。つまり、西欧やアメリカの戦後美術史を基準としてみると、「実験工房」と比較される「具体」グループの場合は、絵画を中心とした表現とパフォーマンスを中心としたニつの領域にほぼ限定され、それら二つとも戦後美術史形成の流域から外れていない。むしろ中心の流れに属し、しかも西欧やアメリカを中心に編成されてゆく美術史の中に織りこみ易い活動なのである。しかも日本の美術史家にとってもこうした評価は、日本の現代美術史のアイデンティティを提示する場合、容易に認めることができる点なのであった。
その例として1989年のパリのポンピドゥ・センターの「前衛芸術の日本 1910-1970」展や、1994 年の横浜美術館の「戦後日本の前衛美術展」でも「実験工房」の全貌に焦点を当てることができなかった。その理由は、むしろこの工房内部の中にあった。あるいは「実験工房」は美術史の対象として採り上げるべきではなかった。あるいは現代音楽史の対象として採り上げるべきではなかった。そうした限定された専門領成が形成されてしまった1990年代の見方では捉えるのが難しい活動内容であった。つまり一般の埋解を拒んできた最大の理由は「実験工房」自身の中にあったと思うのである。
その理由の解明に入る前に、一つだけ触れておきたいことがある。去る1991年に「第11回オマージュ瀧口修造 実験工房と瀧口修造」展が東京の佐谷画廊で開かれたのは、 1951年の工房結成以来初めての客観的な評価対象としての展覧会だったのである。しかもA4版130項を超えるカタログ出版は、ー画廊で出すべきものというより、第一級の美術館のなすべきものであった。この展覧会とカタログによる記録の整理によって、ようやく工房の活動内容が見えてきたのである。私自身、工房の美術活動の範囲についてまとめ、秋山邦晴は音楽活動の範囲をまとめた。
しかし、今回の展覧会に際しもう一度工房の活動を検討し、その内容を分祈してみると前回の「実験工房と瀧口修造」 カタログの中で、まだ解析が不充分であったことに気付いたのである。その点が、実は「実験工房」の正体不明な活動内容を解明する最大の鍵ではないかとさえ考え始めたのである。
「実験工房」の活動は、すでに述べたように、美術や音楽というアートの領域から逸脱し、むしろ多領域的な活動内容をもっていた。しかしもっと別の視点からみると、戦後日本の新しい文化形成期における社会的運動体だったのではないか。少なくとも専門化したアートの分野から絶えずはみだそうという遠心的なエネルギーが強力に働いていたのである。
このグループのもっていた加速する遠心力の働きを示唆していたのが、漉口修造であった。武満徹のいう精神のパトロン。
ではこの工房の特徴について、もう少し具体的な解析を加えてみよう。まずグループの形成過程は、1948年夏に開かれた「モダン・アート夏期講習会」主健日本アヴァンギャルド美術家クラブの終了後、約10名のメンバーが集まり、北代省三宅で会合をもつことになった。この中のメンバー7名は4カ月後、「七耀会」という展覧会を開き、工房のメンバーの北代、福島秀子、山口がそれぞれ抽象画を出品する。その翌年、音楽の方の核となる動きとして早稲田大学仏文科に在学中の秋山邦晴が、「現代音楽研究会」を組織し、やがて慶応大学医学部の湯浅譲二と知り合う。山口は1947年頃から、東京有楽町にアメリカの民間情報教育局が開設したCI&Eライブラリーに出入りし、新着の図書、雑誌を手にすると同時に、毎週間かれていたレコード・コンサートで新譜の現代音楽に親しみ、やがて解説を手伝っていた秋山の存夜を知る。こうして1950年にかけ美術の核と音楽の核が次第にエネルギーを増し、やがて武満徹、福島和夫、鈴木博義などと美術のメンバーとが会合をもつに至る。
こうした偶然と必然の分かちがたい働きの中で1950年代初めの時期、世界でも稀なインターメディアを目指したグループが形成されてゆくのである。
ところで、このような萌芽期にメンバーの交流にスパイスとなっていたのは、北代の専門分野であり、また彼の好奇心の強い対象であった理工学の知識であった。ビッグバンに始まる宇宙の生成から物理学とくに量子力学などの最新の知織であった。後に「実験工房」の活動が、当時の日本では珍しい科学技術的傾向から構成主義への近接があり、またミュージック・コンクレートや電子音楽に関心をもっていったのも、こうしたスパイスの働きがあったからであろう。
ところで、いま述べた背景それ自体も工房の性格に影響を及ぼしたと思われるが、何より最も特徴的なことは、すでに第1回の発表であるバレー「生きる悦び」が、スポンサーである読売新聞社の依頼によるものだという点である。またその後の工房内の共同制作の発表のほかにも、他分野のアーティストからの依頼や、他分野のプロデューサーから持ちかけられた企画に協力してゆく。工房メンバーに限定された発表ではなく、そのつど、いろいろなチーム構成で仕事をしているところが非常に珍しいのである。つまり「実験工房」というグループに属してはいるが、固定したメンバーだけで活動していたわけではないのである。また発表の対象も展覧会や演奏会のほかに、ステージを対象とした異なった分野の人たちも加わった総合的な発表の方が、むしろ多かったのである。
「実験工房」といいながら物理的な工房のない、いわばバーチャルな工房によるアーティスト群であり、また非常に流動的な仕事の展開が行われていたのである。別の言葉で言えば、早くからプロジェクト・チームのような態勢で仕事を行ってきたのが実体であろう。さらにこうした活動の方向を積極的に推進していたのが瀧口修造のその当時の思想であった。また瀧口修造と同じぐらいこの工房に期待していた岡本太郎も同様な考えをことあるごとに書いてくれたのである。既成の価値観を認めず、日本人的なムラ社会化する美術や音楽の分野にはない新鮮さが、当時の工房が行っていた活動スタイルであり、その特異性が社会的評価となっていたのである。
「実験工房」の第一回発表会で、当時のメンバーのほとんどが、こうした総合的なワークショップの方法を手探りで始めたのである。
ピカソ祭の「生きる悦び」では、振付師 兼 ダンサーとして益田隆、バレリーは谷桃子を迎えている。このバレエ公演は、直接的には読売新聞社からの依頼という形をとっているが、工房形成期である1950年に、すでに北代と今井は横山はるひバレエ団の「失楽園」の舞台美術を抽象的な造形で行ない、51年にも同じバレエ団の「河童」などで舞台美術と照明を行なっている。なおこの二つのバレエの音楽では芥川也寸志と黛敏郎が作曲している。こうした背景の中で1951年メンバーの会合の中で、展覧会の企画がもち上がっている。しかもこの展示会が、作品を並べる形式のものではなく、会場そのものを造形的形態とする方法や、バレエの装置の展示や、作品を音楽と結びつけたり、さらに展示に照明を結びつけ機械的機構による動的効果を与える方法などが考えられていた。
また独自のバレエ上演についても討議され「美女と野獣」がテーマとして挙げられていた。こうした雰囲気と着火寸前のエネルギーがたまっていたグループにピカソ祭のバレエ上演のチャンスが巡ってきたのである。したがって1952年の実験工房第2回発表会以来、現代音楽の演奏会場に造形的オブジェや照明による演出が加わったのは、上記の工房が目指していたインターメディア的方法論の実践であった・
またこのインターメディア的思考は、言い換えればインターアーティスト的な考えにも通じるものであった。したがって他の分野の様々なアーティストとのプロジェクトチームによる発表方法がとられたし、第2回発表会のプログラムを見れば分かるとおり、オリビエ・メシアンをはじめコープランドやバルトークなどの海外作曲家の初演を行っている。また公演のパンフレット、チラシ、切符などはすべて工房のデザインである。
工房の発表方法は演奏会のほかに第4回読売アンデパンダン展への工房の共同制作によるレリーフ作品の発表があり、工房の第3回発表会は造形部門を中心とした発表である。この場合も発表会という名称をとっていることに注目したい。同年8月の第4回発表会で、初めてサティやメシアンと並んで工房メンバーの武満、湯浅、鈴木の新作が発表されている。
1953年になると工房の企画ではないが「アサヒグラフ」のコラム・ページ「APN」のカット写真構成が始まり北代、山口、駒井及び写真撮影で大辻が加わる。ここでも斉藤義重、勅使河原蒼風、長谷川三郎、浜田浜雄などが加わり交流が起こっている。またその頃、大辻は阿部展也、瀧口修造を顧問とする「グラフィック集団」に属し写真を中心としたグラフィック・アートのグループに入っている。このグループは後に浜田、北代なども入り石元泰博もメンバーになっていたこともある。したがって工房はこの集団とも親しく交流していた。
またこの年には第5回発表会が開かれ「アサヒグラフ」編集長・伊沢紀の紹介によりスライド投影機と音をシンクロさせた「オートスライド・プロジェクター」を開発した東京通信工業(後のSONY)と関係をもち、この装置を生かした映像音響作品の制作にメンバー全員が参加した。この映像への関心はすでに工房の中で映画の実験への関心が高まっており、小西六などとカラーフィルムによる撮影の可能性を探っていた。また後に実現した映画「モビールとヴィトリーヌ」の試作もこの頃からスタートしていたのである。
この第5回発表会は作曲グループの発表のほかに、秋山による「テープレコーダーのための詩」と次の4本のオートスライド作品が作られた。

「水泡は創られる」構成:領島秀子/音楽:福島和夫
「レスピューグ」構成:駒井哲郎/音楽:湯浅譲二
「試験飛行家W.Sの眼の冒険」構成:山口勝弘/音楽:鈴木博義
「見知らぬ世界の話」構成:北代省三/音楽:鈴木博義、湯浅譲二

1954年には実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が行なわれ、「月に憑かれたピエロ」のほか全曲が日本初演であった。
1955年には松尾明美バレエ団と工房の共同発表が行なわれ、「イルミナシオン」、「乞食王子」、「未来のイヴ」のそれぞれを山口、福島、北代が装置・衣装をデザインしているが、作曲の方は芥川、黛、武満といった具合に工房以外の作曲も入っている。この年には工房の核エネルギーは様々な社会的展開の機会をえて拡がってゆく。
関西で実験的な歌舞伎の演出を行っていた武智鉄二は工房の活動に注目し、シェーンベルグ「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「稜の鼓」への協力を依頼する。また日劇ミュージックホールからは、岡田恵吉演出の「神の国から谷底を見れば」というボードビルの舞台に映像、造形、音楽による協力を依頼される。これはおそらく戦後わが国の舞台デザインで本格的な映画とスライドによる映像の演出として、初めてのことであり、ことに3面マルチによる上映は1970年の大阪万国博の頃になって試みられるようになったものだった。
一方新理研映画が「日本自転車工業会」から制作を依頼されていたPR映画「銀輪」は、演出助手の松本俊夫の発想でもっと実験的な映画の試みが考えられ、「実験工房」に協力を求めてきた。
この映画は今までのPR映画の常識を破るもので、自転車の夢をみる少年の幻想を抽象とシュルレアリスムの手法を探り入れながら描いたものとなった。同時に技術的実験としては東宝の特撮監督の円谷英二の協力を仰ぎ、カラーによる特撮としては日本初の映画となったものである。
その他、音楽の方では工房メンバーの作況かはそれぞれ独自の作品を発表すると同時に、様々なインターメディア的発表に協力し未知の新しい分野を開いていった。「実験工房」の活動が知られてくると、工房は当時の日本における革新的な運動体とみられるようになり、やがては1956年の「ミュージック・コンクレート・電子音楽オーディション」のように新しい実験のプロデュースを行うことになる。この時は主催「実験工房」であり、岡本太郎の「現代芸術研究所」、NHKなどが後援という形をとっている。また発表者は黛敏郎、諸井誠、柴田南雄、芥川也寸志、武満徹、鈴木博義(「試験飛行家W.S氏の眼の冒険」山口勝弘の音楽)などが集まり、会場の客席には、山口によるロープを用いた放射状の空間構成で環境をつくった。
こうした幅広い活動を通して実験を重ねたことが、工房メンバーのその後のアーティストとしての精神の核となったことは間違いない。常に時代の方向を見据えながら新しい科学技術をもっている可能性を摂取し、その技術を人間化し、新しいセンセイションを表そうとしていた。しかし同時に日本の伝統的な芸術表現の核とその文化的本質を捉え、それらをそれぞれの作品の中に醸しだす努力を忘れていなかった。
拡がってゆく工房の方向を、時には仲間の一人として時には第三者として注視し続けていたのが瀧口修造という存在であった。時には厳しい批判を述べ、しかしながら切り捨てることなく、更に無限の可能性が開かれている先を見透そうとしていたのが瀧口修造であった。なぜこれほどまでに瀧口修造が実験精神ということにこだわり、そこから生まれたものを、より多くの公衆との共有を目指したのかといえば、まさに瀧口本人が1950年代に未来の芸術を、こういう姿のものとして思い描いていたからに他ならない。
瀧口修造は常に実践者であり、しかもユートピアンであった。「実験工房」はただの一度も大仰な宣伝文を発表していない。むしろ様々な実践の中から人々に伝わっていくものを信じていた。それだからこそ形のない工房として精神の実験を続けることができたのであろう。
なお「実験工房」の成立期に瀧口によって書かれた多くの文章には、「実験工房」の活動の方向性とその可能性について述べられたものが少なくない。例えば「実験工房第二回発表会」プログラムには「実験の精神について」という文章が寄せられ「これから世界の芸術と呼吸を通じ合うためには、もっともっと、つよい思想をもたねばなりません。それには私は何よりも実験精神を養うことが必要だと思います」と述べ、実験といっても実験室だけの現象ではなく、社会や現実にふれることの必要性を強調している。また1952年の「美術批評」5月号には「芸術と実験」という論文により、科学と芸術における実験の意味の違いを述べると同時に、今日の写真や映画やラジオやテレビなどの機械を通した芸術表現の登場期にも、多くの芸術家が開拓期に実験を重ねていることを述べている。また「芸術はより大きな公衆をもつことは望ましいが、今日の時代で新しい芸術は実験期を必要とする。それを飛び越えて大きな公衆と結びつこうとするころに商業主義的なジェスチェアが生まれる。モダン・アートが軽薄なモダニズムと混合されるのは、主にこういう場面であると考えられる。しかし真の公衆が最後に芸術に求めるものは、おそらくこういうジェスチェアではあるまい」と書かれている。