2000 ’70年万博再考 – 総合的な演出空間の創造

シリーズ’70年万博再考
総合的な演出空間の創造
山口勝弘 環境芸術家

概要

1960年代の芸術は、時代の雰囲気を吸いながら芸術作品という対象の制作から次第に離脱してゆくのである。環境芸術という言葉がすでにそういう兆候を示しているのである。すなわちいままでの芸術はそれぞれの表現分野の枠の中で、ある定められた形式によって、求心的な存在となっていたのである。美術でいえば、それは絵画という表現であり彫刻という表現であった。つまり作品は近代を通してこういう形成の中で存在し、また受容されていたのである。しかし環境という条件の中で作品という存在を考えた場合、形式によって枠づけられた条件は、環境という周囲をとりまく条件によって相対的なものとならざるを得ない。もっとはっきり言えば、作品を規定していた分野の境界が不分明となり、場合によっては作品という求心的存在が融解し、環境そのものになってしまうことすら考えることを許してしまう。造形芸術のとるべき姿にあった素材感や形態感が失われてゆくのである。そして作品の素材や形態の中に機械的なイメージが導入され、キネティックな運動感が加えられても、まだ作品という形式は最終的に存続していたのである。しかし人工的な光が作品の素材にとって変わり、その光が周囲の環境の中に拡がってゆくと共に、作品は形態の枠によって規定されなくなっていった。1960年代の造形作品はキネティックアートとライトアートの二つの方向から環境性を強く意識させたのである。

このことは、1960年代を特徴づける三つの展覧会のタイトルの中に十分読みとることができる。「色彩と空間」 展(1966年 南画廊)、「空聞から環境へ」展(1966年 松屋)、「現代の空間’68<光と環境>」 展に共通しているのは、空間を色彩とか光によって環境化していくという方向である。もちろんそれぞれの展覧会に出品された作品の内容を見ると単純にはくくれないが、とにかくタイトルの中には、こうした新しい造形のリテラシーが求められていたことは事実である。

1966年には日本でも1970年の大阪万国博への参加を目的としたグループが結成され、展覧会とイベントが開催された。「空間から環境へ」というタイトルが示しているように、作品展示を行うと同時に観客のために新しい人工的環境を提案することを狙っていた。

またこのグループのメンバーには、建築家、グラフィックデザイナー、インダストリアルデザイナ一、画家、彫刻家、造形作家、映像作家、音楽家などが含まれている。

そして直接博覧会を目指してはいないが、アメリカでも芸術家とエンジニアの協力によるインターメディアを目的としたグループ「E.A.T.」 が結成され、ここでも電子技術、音響技術、映像技術と芸術が協力し、さらに舞踊家が参加したいわゆる大空間でのパフォーマンスが行われた。

また万博に参加した外国パビリオンでも、アメリカ館、コカコーラ館、ドイツ館、フランス館、スイス館、カナダ館などでは前衛的なアーティストやデザイナーが協力していた。こうした状況の中で、マスメディアは各パビリオンの入場者数の集計をテレビの視聴率のように発表した。この結果、前衛的な芸術家の実験的手法と大衆性が、必ずしも一致しない結果となり、アート&テクノロジーの時代的潮流は1970年以降一時退潮してゆく、しかし1970年代に入るとビデオアートとコンピュータグラフィックスがExpo’70の映像メディアをさらに尖鋭な方向へ進めてゆく。

1960年代の時代的動向

電子工学技術は、最初に宇宙ロケットの制御システムに利用され、同時にシステム・エンジニアリングの手法によって閉鎖型プロジェクトの実施に応用された。これに対し、芸術家たちが用いる技術システムは、即興性とアナログ性の高い人間のパフォーマンスに結びついて用いられた。したがっていわゆる「人間=機械系」といっても、まったく異なった発想を出発点としていたのである。

「E.A.T.」の活動は、ベル・テレフォン研究所の技術者ビリー・クリューバーを中心に、ラウシェンバーグや、ロバート・ホイットマン、ジョン・ケージ、アレックス・へイ、デビィッド・テュードアなど美術、音楽、舞踊など多領域からの参加者によって行われた。

その中でも、1966年に、ニューヨークの旧兵器廠(有名なアーモリー・ショーの聞かれた建物)で、「演劇とエンジニアリングの九夜」というイヴェントがひらかれ、これが芸術と技術の新しい結びつきを示す大きな出来事となった。ここで新しいというのは、閉回路テレビ系や、シンセサイザーを組み込んだ音楽の演奏を含めて、メディア指向の強い演出が行われた点である。また演奏者と観客との間の区別を取り払い、いわゆる観客参加の上演形式が目立った。

この観客参加という形式は、1950年代末からアラン・カプローによって始められたハプニングの延長線上にあり、ハプニングがよりインター・メディア化し、また電子工学の新しい技術と結びついたものが、この「E.A.T.」のパフォーマンスの特徴となっていった。

すでに「E.A.T.」のパフォーマンスが、これらの装置をメディアとして利用していたように、音楽の分野では1960年代に入ると電子音楽の実験が始められていた。西独のケルン放送局の電子音楽スタジオは、そうした活動に関心を持つ音楽家のメッカであった。

やがてフランス、アメリカ、日本などでも電子音楽スタジオの実験活動が始まる。美術の分野でもコンピュータにプログラムされた図形を、XYプロッターで紙面上に描き出す方法が考えられ「コンピュータ・グラフィックス」が実現する。さらに、これらの図形を連続的に変化させ、一本のフィルム上に記録させるコンピュータ・フィルムの実験が始まる。アメリカのスタン・ヴァンダーピーク、ジョン・ホイットニーはコンピュータ・フィルムの先駆者である。とくにスタン・ヴァンダーピークは、自分の家に小型の半球ドームを建て、そこにマルチプロジェクション装置を置き、映画の環境的展示に興味をもっていた。

ではなぜ前衛的な芸術家たちが動員されたのかといえば、おそらく次の二つの理由からだろう。

一つの理由は、この万国博では直接的な商品展示が禁じられていたことである。したがって芸術的な展示によるパビリオン間の競争が起こった。

二つ日の理由は、1番目の理由とも関係するのだが、わが国の工業技術社会のハードウェアは、ほぼ世界水準に達した。そこでそれらのテクノロジーの利用技術、つまりソフトウェアの開発に対する産業界の期待があった。

時あたかも、ミニスカートとビートルズの時代、つまり大衆文化の中にファッション現象の新しい展開が始まっていた。この大衆文化社会の新しいエポックを可能にしたのは、情報とそれらを伝達する新しいメディアの力に負っている。
1970年の万国博は、ある意味で情報化社会への導入的役割を果たしたのである。ここでいう情報化社会というのは、情報に対する社会的関心が高くなり、情報そのものに対する価値評価が高くなってゆく社会を示している。1960年代の半ばからコンピュータの導入が、社会の各分野で本格化するとともに、コンピュータ・アート、つまりコンピュータによる芸術が生まれている。しかし、コンピュータ・アートも、むしろ70年代に入って着実な展開をとげる。

ところで万国博の芸術的成果を考えると、一つはモニュメンタルな建築技術上の実験が行われたことだろう。富士パビリオンの空気構造による巨大建築物、パイプによる世界最大の構造体となったお祭り広場の大屋根、また各国パビリオンを含めて、事務所的建築物ではなく表現的な建築物について、世間の関心を集めたことも一つの成果となった。とくにパビリオン内部の演出的空間構成の場で、造形家たちの技術が利用されたのである。

この万国博が一種の映像博といわれたように、マルチ・プロジェクションの手法が開発され、太陽の塔内部の粟津潔のプロデュースによる「マンダラマ」、東芝IHI館の泉真也のプロデュースによる「グローバル・ビジョン」、富士グループ館のマルチ・プロジェクション、せんい館の松本俊夫による「アコ」、三井グループ館の山口勝弘による「スペース・レヴュー」などがあった。その他「E.A.T.」のグループと中谷芙蓉二子によるぺプシ館の演出は、惜しくも企業側の意見により会期半ばで中止されてしまった。また鉄鋼館では、武満徹の音楽と宇佐美圭司のレーザ一光線の演出が結びついたものなど、視覚芸術上の数多くの実験が行われている。

三井グループ館の構想

動くパビリオン、コンバイン、道線モンタージュ理論−建築としての形からの発想でなく、パビリオンが外部的にも内部的にも動的な演出を行うというのが山口勝弘、東孝光、一柳慧の中心構想、だった。と同時に観客をこの動的な演出にまきこんでしまうために、入口から出口にいたるまでを、連続的な演出によって構成する。この考えが道線モンタージュ理論である。そして全体の構想をまとめていくのに各部分や各担当分野相互の間に、調和のあるまとまりを求めるより、むしろ異質な要素の結合、つまりコラージュ的な発想を大切にしようということでコンバインという考えが採択された。

これら3つの基本的理論の結果として、われわれの作るパビリオン全体が、自己完結的な閉ざされた演出を観客に提供するのではなく、いつも動的で観客がおのおの用意された演出の各要素を、自由に自分の体験として選択できるような方向が目標とされた。つまりわれわれ作る側の三原則は、そのまま観客にとっての三原則となっている。観客の動く体験、体験の中にモンタージュされてゆく各演出内容、連続的な体験のコンバインといった考えに翻訳されるもので、これは静的な鑑賞ではなくハプニングやイヴェントのような動的な経験に通じる芸術との接触である。

●基本構想からトータル・シアターに向かって

このトータル・シアターという形式は、いわゆる環境芸術の、ひとつの本格的な上演の形式であり、すでに20世紀はじめから演劇、映画、音楽、舞踊などの各ジャンルの進歩的な芸術家たちの構想として、いくつかの試案が発表されてきた。しかし、本格的な実現のチャンスはブラッセルの万国博におけるコルビュジェ、クセナキス、ヴァレーズなどによるフィリップス館の場合がはじめてであった。

●演出装置

光映像の諸装置は、高さ11メートル、幅26メートルのスクリーンが3面、ドームを取り囲んでいる。さらに、前期の各ターン・テーブル上に、小型スクリーンが付属する。

プロジェクタ一関係では、映画の上映のために、16 ミリのプロジェクターが18台、ダイレクト・プロジェクション上映のための9 台の特殊投影装置、さらにストロボ・プロジェクター3台などが備えられている。

音響装置は1726個のスピーカーがドーム内各所に配置されている。天井の二重のリング上に配置された天井スピーカ一群、ドーム内壁に等間隔に配置された壁面スピーカー、500数個のスピーカーを壁体パネルに仕込んだ3ヶ所の群集スピーカ一、ドームの中央のボールにのっている4組のセンター・ポール・スピーカーなどがある。空間的に配置されたこれらのスピーカーからは10チャンネルのテープによる音響、コンピユータ・プログラムと音素材発生機によって生み出される音響が複雑な音像ディスプレイによって空間的に発生する。

映像そのものについては16ミリの映写機とダイレクト・プロジェクターによる多層マルチ・プロジェクションを実験している。すなわち映画とスライド・プロジェクションをコンバインし、それらを同時的に投影するのである。

映像は今日の世界をかたちづくっている、自然と人間のさまざまな営みの断片である。普通写真、特撮、さらにポジフィルムをネガにしたり、同じくポジをカラーモニターテレビに通して色ぶれをおこしたり、豊富なテクニックを用いている。それらのモンタージュもマルチプルの手法を最大限に生かして、左右上下に、速やかな転換方式を伴って、変化をつけている。その中には、たとえば、CM的な短いカットを3ないしは5秒間ほど同時に複数で見せることにより、同時体験のおもしろさをねらったこころみもある。音響と映像、観客の動きなど、これらすべての演出は、コンピュータの制御によって行われる。

こうした「トータル・シアター」の実現によって従来の音楽、オペラ、バレエ、ミュージカル、演劇、映画など、劇場という空間とそのための機能に基づいた芸術のコミュニケーションと体験の質とが、根本的に違った経験を観客に与えることが可能となる。一方、このパビリオンでは図面でもわかるように、入口から出口までの観客の体験の中で、とくに対話の散歩道と休息室である想い出の空間は、自分にかえるためのフィードバックを考えたサイバネティックスな演出になっている。

さてこのような巨大演出空間での体験とその実験は、その後私自身の兵庫県立近代美術館での「銀河庭園」展でのパフォーマンス、埼玉県立近代美術館でのマルチメディア型の「光と音によるエレクトロ・ソカロ」の演出、パリのユネスコホールで発表された「イメージ・シナプス」及びスイスのロカルノで発表された「メタボリズム・イン・ロカルノ」の光と音楽と映像演出や、最近では愛知県文化会館での「コラボアート・環」及び「縁」の総合演出などに生かされ、博覧会とは違う日常空間での新しい演出として生かされている。


山口勝弘(やまぐちかつひろ)
1951年日本大学法学部卒業。北代省三、武満徹らと「実験工房」を結成する。68年「第34回ヴェニス ビエンナーレ」に参加。72年ビデオによる芸術活動を目的とした「ビデオ広場」を結成。75年「第13回サンパウロ ビエンナーレ」にてビラーレス工業賞受賞。85年「第6 回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」黄金のレーザー賞受賞。93年「第14回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」ヨーロッパ委員会名誉賞およびロカルノ市グランプリ。95年東京都現代美術館エントランス・ロビーに「光と音のインスタレーション」、同じく中庭パティオに「音のインスタレーション」を制作する。96年新宿オペラシティのギャレリアに、20mにわたるパブリックアート「音の気配」を制作する。97年アーテック’97にメディアインスタレーション「トリアディックガーデン」を発表。98年東京都写真美術館の「電子時代の新たなる肖像展」へ「Flee St.lt Art Rope」を出品。同年、ICCギャラリーの「バベルの図書館展」にビデオ彫刻を出品する。同年、愛知県芸術文化センターにおいてパフォーマンス「コラボアート−縁−」の総合演出を行う。99年大阪市住まいの情報センターおよび台北市第2美術館入口ホールにマルチメディア型パブリックアートを制作するなど、造形から光、映像、音響まで幅広いメディアを駆使した環境デザインを行っている。
著書に「環境芸術家キースラー」「ロボットアヴァンギャルド」等がある。
現在、環境芸術家。(株)環境芸術メディアセンタ一代表。筑波大学名誉教授および神戸芸術工科大学名誉教授。