1999 CEAM (Center for Environmental Art and Media) 環境芸術メディアセンター

1999-環境芸術メディアセンタ-logo

CEAM 環境芸術メディアセンター(Center for Environmental Art and Media) 発足のお知らせ

拝啓時下ますますご清栄のことお喜び申し上げます。
私儀山口勝弘は、去る3月31日をもって神戸芸術工科大学を栄退致しました。
在任中は公私にわたり格別のご厚情を賜わり誠に有り難く厚く御礼申し上げます。
今後新たな組織により、環境芸術とメディアを結んだ領域を中心に活動を行なうため、個人オフィス・ロクス山口の名称変更を行ない、環境芸術メディアセンターを発足させます。
活動拠点はデジタルメディア研究機能のTOKYO Studio と環境芸術制作機能のAWAJI Studioとをネットワークで結び、多角的な分野のアート活動とデザイン活動を展開して参ります。
また長年勤務致しておりました櫻井宏哉は独立し、非常勤スタッフとなり、新たに岡本知久が常勤スタッフとして勤務することになりました。
今後とも私共への一層の御支援を賜りますようお願い申し上げます。

敬具

平成11年4月
株式会社 環境芸術メディアセンタ一
代表取締役社長 山口勝弘
プロジェクト推進室 笠置勇星
岡本知久
非常勤 棲井宏哉

1956 「ミュージック・コンクレート=電子音楽」第一回オーディション

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ミュージック・コンクレート電子音楽 オーディションパンフレット pdf

音楽が音を出さなくなってしまってからすでに久しい時が過ぎている。ミュージック・コンクレートも電子音楽もともにこうした無内容な音楽の骨組のなかで失われてしまった音の純粋性、音響のエネルギーを取り戻そうとするものである。それはいままでの一さいの装飾をすてて、人間の生ま生ましい呼吸をサウンド(伝える)するものとしたい。ミュージック・コンクレート、電子音楽とは、従来の音楽が陥ち込んでもた慣習悪と模倣とマニエリズムを徹底的に排する。

そして、いままで誰も踏みいれることのなかった新しい音響の世界に生命力を探究しつづけるものである。鉄道ダイヤのように直線の交叉する作曲コンテ図表のなかから、いま新しい宇宙がひらけようとしているのである。

「ミュージック・コンクレート=電子音楽」第一回オーディションをひらくにあたり、NHK、文化放送、新日本放送、ラジオ九州の各放送局、日本楽器、東京通信工業の各社ならびに各方面の方々が寄せられた絶大なご援助に対しては深く感謝する次第である。これらの方々のご媛助がなくしては、このオーディションも大へん困難なものであったろう。

実験工房

1956-ミュージック・コンクレート電子音音楽オーディション

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「ミュージック・コンクレート 電子音楽 オーディション(1956年2月4日、山葉ホール)山口勝弘によるロープを用いた会場構成
Space construction by Yamaguchi Katsuhiro, Musique Concrète / Electronic Music Audition, Yamaha Hall, 4 Feb. 1956.

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山口勝弘によるロープを用いた会場構成ドローイング

Drawing of space construction by Yamaguchi Katsuhiro

実験工房とその周辺

実験工房とその周辺

メンバー
北代省三、福島秀子、山口勝弘、大辻清司、駒井哲郎、秋山邦晴、園田高弘、武満徹、湯浅譲二、鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、今井直次、山崎英夫、瀧口修造

その周辺

美術・デザイン評論
瀧口修造、岡本太郎、植村鷹千代、阿部展也、江川和彦、勝見勝、浜村順(小川正隆)

ジャーナリズム
海藤日出男(読売)、飯沢匡(朝日グラフ)、西巻興三郎

グループ
「七耀会」、「アヴァンギャルド芸術研究会」、「夜の会」、「世紀の会」、「プヴォアール」、「グラフィック集団」、「横山はるひバレエ団」、「バレエ実験劇場」(松尾明美)、「三人の会」、「アルス・ノヴァ」、「具体グループ」

舞踊
横山はるひ、川路明、松尾明美、武智鉄二、花柳寿々紫、花柳寿々掻

音楽
芥川也寸志、黛敏郎、柴田南雄、諸井誠、入野義郎、松浦豊明、長松純子

美術
岡本太郎、阿部展也、池田龍雄、ミッシェル・タピエ、斉藤義重、長谷川三郎

映画
松本俊夫、円谷英二

建築
清家請、丹下健三

華道
勅使河原蒼風


グラフィック集団メンバー 1952-1955

顧問 瀧口修造、阿部展也

浜田浜雄、八木治、樋口忠男、佐々木照男、土方健一、辻彩子、伊藤幸作、大辻清司

増田正、杵島隆、橋本潔、村越襄、中村誠、石元泰博、北代省三、伏見文夫、

田中一光、早崎治、篠山紀信、大塚亨

[松屋、小西六ギャラリー、タケミヤ画廊、等で発表]


1948

1948-七曜会-北荘画廊-2-13-004-02

1948-七耀会-北荘画廊-1-13-004-01

1948-モダンアート夏期講習会-34013

1948年 モダンアート夏期講習会受講者記念撮影

1948-モダンアート夏期講習会


1953

1953-北代省三宅でオートスライドを制作する実験工房のメンバー-34009


1953

1953-鈴木博義と山口勝弘-1-13-006-01

1953-鈴木博義と山口勝弘-2-13-006-02

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1954

1954-実験工房記念撮影-帰国を記念して-シェンベルグのころ-1954年10月-13-002-01

1954-実験工房記念撮影-帰国を記念して-シェンベルグのころ-1954年10月-13-002-02


1955

1955-松本俊夫と山口勝弘-13-005-01

1955-松本俊夫と山口勝弘-13-005-02


1956

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1957

1957-浦安にて-斎藤義重を訪ねる-斎藤、瀧口修造、山口勝弘-1-13-013-02

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1981 グループ アール・ジュニ 設立趣意

1981-グループ_アール・ジュニ構造

グループ アール・ジュニ 設立趣意 pdf

現代の先進的メディアを中心におき、コンピュータ一、エレクトロニクスなどの新しいテクノロジーとの関連の中で、各種様々な分野のアートを統一的に総合し、新しい芸術にしようという趣意で設立した芸術グループです。

会員相互の間で最新情報の交換、協同作業、研究会、そして親睦を深めながら、曜動的に活動を進めて行き、新しい芸術世界を創り上げていくことを目的とします。

発起人委員会
山口勝弘、伊藤隆道、中村曜子

会員(現在)
山ロ勝弘、伊藤隆道、田崎和隆、瀬口英徳、菊竹清文、花野和生、石井勢津子、佐藤慶次郎、滝田哲治、小寺光男、河原孝夫、馬場雄二、三田村畯右、山崎均、幸村真佐男、朝倉直巴、岩田藤郎、横山昌孝、遊佐伸弥、田中敬一
(順不同)

グループ アール・ジュニ 事務局
東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリー月光荘内


命名のいわれ

私どもは永い間の夢として、エレクトロニクスやサイエンスを含むあらゆる技術・芸術を総合した新しい考え方に基づく芸術志向を模索し続けて参りました。
最近ようやく機が熱しまして有志の方々と一緒と発足できる選びとなりました。
私どものとの新しい考え方・運動・そして、その成果としての作品を皆様方に知っていただき、御賛同と御支援を賜わるためには、それにふさわしい名前が必援と考えます。
そこで色々とネーミングの万向を探りましたが、結論としての基本的考え方はいつも「あらゆる技術と芸術との総合・調和にあり」という点に帰着しました。
私どもはこの点が充分に取入れられ、しかも簡略な綴りでロゴタイプとしてもデザインしやすく、その上、発音も優美な名称が創造されるととを願って、応用言語学者・工業デザイナー、そしてブランドクリエーターである松島廣美氏にネーミングを依頒しました。
同氏は、古代ギリシア・ローマ時代には「技術J も「芸術」もひとつの言索、すなわち、ギリシア語ではTECHNE(テクネー)、ラテン語ではARS (アルス)によって一括して言い表されていたという事実、また現在の英語 ・フランス語のART(アート・アール)もそうした意味を持っているという事実、それに特にフランス語の場合は発音が「アール」となって優美であるということなどからネームの主体にフランス跨のART(アール)を使用することを考えました。そしてこの後にハイフンを介して「総合された」という意味のフランス語を付けました。それが「総合された諸技術・諸芸術」という意味のフランス語ARTS-UNIS(アール・ジュニ)なのです。
ART(アール)の語尾にSを付けると複数形となるととは英語と同じですが、統み方は「アール」で、単数の時と変りません。ARTの文法的性は男性です。UNIS(ユニ)はUNIR(ユニール)「結合させる」という動詞から来た過去分詞形容詞UNI(ユニ)の男性複数形で「結合された、総合された」という意味です。ARTS(アール)の語尾のサイレントのSは、その直後に母音で始まるUNISを従えているため[Z]として発音されます。それで全体では「アール・ジュニ」となるのです。
どうか、このARTS -UNIS が双葉から成長して大きな樹となり皆様に心のためのオアシスを提供できますようど理解とご支援とを念願い申し上げる次第です。


アール・ジュニ活動企画書

「エレクトロニクスと芸術のジョイント」

主旨:

最近のエレクトロニクスの発展は、目を見張るばかりである。その影響力は、いるいるな世界におよび、それぞれに花を咲かせようとしている。特にコンピューターは新しい可能性を各界に持ちこんでいる。まさか使う時代に在ってきていると去えよう。芸術の世界においても、多様なかたちでエレクトロエクスやサイエンスが、そしてコンピューターがかかわりを持ちはじめている。
芸術家の創作意欲は活発で、新しいメディアへの挑戦もさかんである。発見と開発、そして完成が新しい創造の世界となる。その世界で、エレクトロニクスとコンピューターは興味ある対象となっている。しかしながら、それらは依然技術的に、又コスト的に数々の問題をのこしていて、従来のメディア程楽に使いこなせるものではない。
ところが周囲の要求は逆に、これらのニューメディアを使ったアーティスティックな表現を、作品を多く求め始めている。同時エレクトロニクス共通とした多くのニューメディアの統合した作品の完成をも求めているのである。

① グループ アール・ジュニは、このような環境のなかで、更に積極的にエレクトロニクス・ニューメディアを研究し、芸術的な場で完成させるべく、「エレクトロユクスと芸術のジョイント(キネティック・アート、ビデオ・アート、レーザー・アート、ホログラフィ・アート、シンセサイザー・ミュージック、コンピューター・グラフィック、ライト・アート、映像芸術)展」などを企画する。

② これらの分野の作品を銀座のみゆき通りに面したギャラリー月光荘の一隅で、展示するのに絶好の場所である会総で統合的に展示しようとするのが、アール・ジュニ コレクションの常設展示である。

③ ワークショップの中心機能は、入手しやすい汎用コンピューターを中央制御機構としたマルチメディア・エレクトロ・マシンである「アール・ジュニ・マークⅠ」であり、それぞれのアート・メディアをコントロールし、マニュアルでは操作しきれない多くのプログラムを、オブジェをコンピューターが人に代わって操作して行く。芸術的場の演出をコンピューターが助けてくれるというわけである。もちるん主役は、芸術情報の送り手と受け手であることは云うまでもない。

今迄に、それぞれが個々に発展されて来ているが、統合的に構成されて、それらが発表されるのは今回が初めての試みであり、同時にこれからのアール・ジュニ、統合芸術の姿を示す第一回の活動でもある。新しいアートの可能性をここに見出し、コンピューター・エレクトロニクスとアートとのかかわりが、とこまで来ていると云うことを認識していただき、また将来への示唆となれば幸いである。

1981 アールジュニの紹介

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Arts-Unis アール・ジュニ pdf

グループ アール・ジュニ

人聞の夢は果てしなく広がり、夢は時代を創り、時代は夢を育てつ冶、万古の昔から悠久の未来へと変化進展してゆきます。どの時代のどの瞬間にも、人間は見果てぬ夢を抱きその実現をねがい、人生を賭け挑戦してきました。

我々が生きる20世紀最後の4半世紀は、エレクトロニクスのめざましい進歩によって、まるで違う次元の世界が出現しようとしています。それはサイエンスやエレクトロニクスを含むテクノロジーが、人間の第六感さえも創ってしまうのではないかと思われるほどの高性能にまで到達しつつあるからです。

4〜5才の子供がコンビュータ・ゲームに我を忘れて熱中している姿を見ると新しい時代への変化をひしひしと感じさせられます。

我々はこのような時代の中で、エレクトロニクスやサイエンスを含むあらゆる技術、芸術を総合した新しい発想の芸術志向を模索探求してきました。

2万年前の洞窟画以来壁から離れなかった絵を空中に描いてみたい。極限まで高められた芸術、技術、知能の接点を、この目で確かめてみたい。

既成概念や先入観をとり去り、本質を見極め、真理を組み変え組み合せ、美への永遠のあこがれと夢を、この高度のテクノロジーを駆使して人間生活の幸福に反映きせたい。アール・ジュニはこのような考え方をもっ人々のクツレープです。

代表 中村曜子


主旨

最近のエレクトロニクスの発展には目を見張るばかりです。その影響力はいろいろな世界におよび、それぞれに花を咲かせよっとしています。芸術の世界においても、多様なかたちでエレクトロニクスやサイエンスが、そしてコンビュータがかかわりを持ちはじめてきました。

芸術家の創作意欲は活発です。新しいメディアへの挑戦もさかんです。発見と開発、そして完成が新しい創造の世界です。その芸術家の世界に最新のテクノロジーか求められています。技術者と作家の協同作業による新しい造型が目立つてきました。

そして、あらゆる分野からこれら新しいテクノロジー・メディアを使った表現や作品が増えてきています。実際にこれらのテクノロジーアートの統合された完成度の高い作品がこれからも多く求められています。

このような現代の環境のなかで、積極的にエレクトロニクスやサイエンスを含むあらゆるテクノロジー・メディアを研究し、芸術と技術の分野が協同して完成していく新しいアートの創造を私どもはアールジュニ活動の主旨とします。


活動範囲

アール・ジュニ活動は技術と芸術の総合です。活動の中から生まれる成果は、現代の知品をいく全く新しいテクノロジアートの出現です。高度化きれた現代の技術社会のなかに生まれるオアシスとなると言っても過言ではありません。この活動は、私どもの活動主旨に賛同した仲間によって組織されたグループのメンバーとともに展開されます。

●グループ活動

❶ 企画展の開催(国際展レベル)
テーマをきめて展覧会を聞きます。年間6回開催を目標とします。

❷ 公募展の開催(コンクール型式)
年に1回開催します。企業のご協力をいただいて優秀な作品には賞を出します。

❸ イベントの企画・開催
ジョイント企画などにより、フェスティバル的なイベントに参加します。

❹ 研究会の定期的開催(例会となる)
年6回の研究会を開催します。会員相互の意見交換、研究会を含めコミュニケーションの強化を計る中心的活動となります。

❺ 講演会の開催
一般の人々を対象とした講演会の開催。年4回程度。

❻ ジャンル別部会
アール・ジュニのメンバーの専門性によってジャンル別にそれぞれ部会活動を行います。ジャンルは次の通りです。

1.コンビュータ・アート部会
2 . ビデオ・アート部会
3. レーザー・アート部会
4. ホログラフィ・アート部会
5. キネティック・アート部会
6. エレクトロ・ミュージック部会
7. オプテイカル・アート部会
8. ライト・アート部会
9. ロボット部会

❼ 会報の発行
年6回会報を発行します。研究会、講演会の内容の掲載。内外の情報、会員のニュースなどを掲載します。

❽ 会員の資料センターの開設
会員に関する資料をストックし、会の内外への情報サービスをします。

❾ 情報センターの設置
内外の情報の収集、記録、資料の作成、ニュースの報告、国際交流を行います。

● ギャラリー活動

❶ 常設展
日本では初めてのテクノロジアートの常設展示場を開設します。

❷ 作品の販売
アール・ジュニの作品を展示販売します。

❸ グループ-アール・ジュニメンバーをパックとしたプロジェクトの企画制作をします。

❹ ワークショップ
活動のニーズからでてくるワークショップの充実化を計ります。

● その他の活動として、会員相互の援助的活動、法人会員のフ。ロジェクトに協力します。また他のグループとの交流、タイアップなどを行白っていきます。


アール・ジュニの展望

科学技術の進歩は少なからず芸術の分野にも影響を及ぼした。戦後の美術活動はテクノロジーの影響を受け、さまざまな美術形式を生みだし、平面から空間へ、運動と光・音を同じ場に持ち込んだ環境芸術にまで発展してきている。

特に最近のエレクトロニクス・テクノロジーの発展は目をみはるものがあり、コンビュータ・アート、レーザースキャニング・アート、ホログラフィアート、ビデオ・アートなど新しいメディアが創造の世界に参入している。

このように表現技術の発見が辛庁しいメディアを促し、逆に新しい芸柿I創作の要求が新しい技術を発見するという関係は、印象派以降のきまざまな芸術運動の展開をみてもわかるように、エレクトロニクス・テクノロジーという人間の手や頭脳の延長として、それを何倍にも活用できる技術は人間の意識を拡大し、感性を高め、われわれにまた新しい視覚の可能性を示してくれた。エレクトロニクス・テクノロジーをメディアとする幸庁しいジャンルのメディアが、真にわれわれの意識拡大のメディアになるのも時聞の問題であろう。

グループ・アールジュニはこのような環境の中で、エレクトロニクス・テクノロジーを積極的に取り入れ、創造活動に反映した新しい視覚の世界というニューメディアの可能性を追求していきたいと考え、ここにみなさまにご理解とご支援とをお願い申し上げる次第です。

1994 実験工房から淡路芸術村へ Metafort Symposium

“Artistic Creation, Technological Innovation, Social Experiment”,
First Metafort’s Symposium,
September 30th and October 1st 1994 in Aubervilliers, France.

「芸術的創造、技術的発明、社会的実験」
第一回メタフォール・シンポジウム、
1994年9月30日+10月1日、オーベルヴィリエ、フランス

実験工房から淡路芸術村へ
山口勝弘

私はいま日本列島の中の小さな島で新しい芸術活動の担点、を作ろうとしている白淡路島芸術村(Awaji Island Art Village)である。日本の古い神話である「古事記」 によれば、IZANAGI という男神とIZANAMI という女神が天の上から長い矛をもって海の水をかきまわして最初に作った島がこの淡路島である。

すべての神話がそうであるように、それは民族や部族が集団化してゆく過程でできた物語である。私の直感的なひらめきがこの島に芸術村を作ろうという構想を生みだしたが、その動機は古い時代の神話にあったわけではない。いま私たちは人類史上もっとも多くの出来事の凝縮された世紀の最後を迎えている。恐らくまだ神話という形にはなっていないかもしれないが、空と地上と海上を超高速で走りまわる人類と物質、そしてコンピュータ内部と人聞のもつコンビュータ・ネットワークの聞を超高速で走りまわる情報とが新しい集固化した地球上の人聞の意識を生みだしている時代なのだ。

その時代を迎えた時、地球上のどんな地点にも芸術活動の拠点、を作るととが可能になるはずである。パリやニューヨークや東京のような大都市の中だけが芸術の中心となる時代ではなくなるだろう。

私が数年前、淡路島を選んだもっとも大きな理由の一つは、島から高速艇で30分の距離に新しい国際空港の建設が始まっていたことと、20世紀末前にこの島が東洋一の橋によって本州と結ばれるととが決っていたからである。園内的にも国際的にも高速化する交流の場に組み込まれ、またコンピュータネットワークの進展は人口一万人の町でさえ世界の大都市と全く変わらない情報網によって生きるのである。

芸術活動は常に個人の才能やインスピレーションから生まれるものではなかった。時代を見越したあるアーテイストの先見的な視線が他のアーテイストの視線と交差し、アトリエは実験的な工房となり、新しい芸術の運動体となり社会的な場を形成していった。

ワイマール共和国のパウハウス(Bauhaus) も、その流れを受け継いだノースカロライナのブラック・マウンテン・カレッジ (Black Mountain College) も、日本の近世京都郊外の鷹ケ峯(Takagamine) に集まった尾形光淋(Korin Ogata)らの芸術村も、それらは新しい芸術運動の艶点であり才能あるアーテイストたちによる凝縮された集団が強烈な磁場を形成していた。

私にとってアーテイストとしての社会的活動の出発点となったのは1951 年に東京に結成されたグループ「実験工房」(Experimental Workshop)であった。これは詩人でシュルレアリスムの日本での最初の紹介者でありプルトン(Andre Breton)やデュシャン(Marcel Duchamp)と親突のあった瀧口修造(Shûzô Takiguchi)によって名づけられたグループであった。詩人、作曲家、照明デザイナー、写真家、画家、造形作家、そしてエンジニアが加わったインターメディアグループの誕生であり、最初の発表が戦後日本で閲かれたピカソ展を記念し、ピカソ(Pablo Picasso)の絵画「生きる悦び’」 (Joy of Life) をテーマとしたバレーの上演であった。

このグループ活動の特徴は実験工房という名前にもかかわらず具体的な工房を持たなかったことにある。戦後の日本で芸術家のための工房をもっととは殆ど不可能に近かったーしかしもっとも重要なととは芸術上の実験精神をメンバー全てが共有していたことであり、観念の工房を心の中に形成していたことであった。メンバーの交流は今も続き発表を共にすることもある。

私自身の芸術活動の核はつねに次の時代を目標とした活動の磁場を形成することにあった。1960年には「集団現代彫刻」 (Shûdan Contemporary Sculpture Group) という彫刻と環境の場を考えるグループを結成し、1960 年代を通して日本の現代彫刻が公共の空間に進出する道を開いた白1971 年には日本ではじめて「ビデオひろば」 (Video Plaza) というビデオアート活動の運動体をつくり、1981 年には「グループ・アール・ジュニ」 (Group Arts-Unis) を結成してエレクトロニクスアートの活動の母体をつくった。このグループはコンビュータアート、ホログラフイアート、キネティックアート(Kinetic Art)、ライトアート、コンピュータ・ミュージックなど独立した分野が形成されてゆく申で、それらの専門分野を横断的に結ぶのが目的であった。すでに1970 年代以降メディアと結びついたアートの分野の活動は即時的に全世界の活動と愛読が始まっていたため、日本の中の活動も地理的ハンディキャップを考える必要がなくなりつつあった。1989年からは「グループ・アール・ジュニ」 の活動の延長線上に名古屋市でARTEC ビエンナーレ(International Biennale in Nagoya-Artec)が始まりエレクトロニクス・アートの重要な発表の場が生まれた。

私自身アーテイストとしてアート・アンド・テクノロジーからエレクトロニクス・アートへと作品活動を展開してきたが、一方1977年よりこの分野での日本で最初の教育活動の場が筑波大学(University of Tsukuba)の中に総合造形コース(Plastic Arts and Mixed Media) という名称で設置され、私はととの教授となった。この大学の工房とビデオとホログラフィーの研究室はエレクトロニクス・アート時代のバウハウスの誕生であった。また「実験工房」時代から26 年後にできた具体的な実験工房であった。

それからすでに17年の時聞が流れ私は新しい形の精神共同体の申に生きている。今回オ一ベルヴィリエ市(Aubervilliers)にできるシテ・デ・ザール(La Cité des Arts) の最初の世界的プレゼンテーションの記念シンポジュームに招かれた今、ここに集まった私の友人を含む多くの方々と共に私の実験精神に新しい活力がそそぎとまれているのを感じる。淡路島芸術村について若干具体的な説明を述べてみたい。この島には漁業や農業を営む人たちが多く、島の環境には自然の景観が多く残っている。人聞は五感すべてを包んでくれる自然環境の中で脳の中でのパーセプションとインタラクティプな関係を持つことによって強い快適感を感じとる。このような自然を背景とした場の申で環境芸術やメディアによって結ばれた芸術活動の可能性を考えるための「濠境芸術メディアセンター」(Center of Environmental Art and Media -C.E.A.M.)を中心にアーテイスト・イン・レジデンスのための住居とアトリ工、更に作品の貯蔵庫と展示空間を用意する。

1994年中に具体的な全体計画を作り、1995年より道路の造成を行ない1996 年よりセンターの建設に入る予定である。

この芸術村の要の場所に1994年7月に私のArt Factory が完成をみたーとのArtFactory が先ず芸術村での活動の実験工房であり、研究所であり、また若い芸術系大学や若い学生のための私的教育空間としても機能させてゆくー淡路島に出来た委員会では、淡路島芸術村はあくまでも自然の中の村的雰囲気を大切にしながら発展させるべきで、巨大な建物や多数の運営経費によって白業自縛に陥る道はとるべきではないという意見の提案がでている。


De l’Atelier Expérimental au Centre des Média et Arts Environnementaux

Yamaguchi Katsuhiro

Je développe actuellement le projet du Geijutsu Mura (Village des arts) à Awajishima, une petite île de l’archipel nippon. Selon le Kojiki (la “Chronique des faits anciens” établie en 712), la déesse Izanami et le dieu Izanagi remuèrent les eaux marines depuis le ciel à l’aide d’une longue hallebarde, jusqu’à former la première terre de l’archipel, Awaji.

Comme la plupart des mythes, il s’agit d’un récit qui a pris forme grâce au processus de regroupement de différentes éthnies et tribus. La raison qui m’a poussé à former le projet d’un “village des arts” sur cette île n’est cependant pas l’existence de ce mythe. Nous approchons de la fin d’un siècle qui a connu, comparativement aux autres périodes de l’histoire humaine, un nombre considérable d’événements. Les plus marquants n’ont peut-être pas encore été retranscrits sous la forme de mythes, mais ils ont néanmoins donné naissance à une conscience collective nouvelle des hommes sur la terre, qui s’est notamment transformée en fonction des possibilités, sur terre comme sur mer, de déplacement ultra-rapide des hommes et des choses, et de circulation des informations au gré des réseaux informatiques.

À l’avènement d’une telle époque, nous devons être en mesure de construire des bases d’activités artistiques en n’importe quel point géographique du globe terrestre. Nous ne sommes en effet plus à l’âge où l’art ne se crée que dans les métropoles telles que Paris, New-York ou Tôkyô.

L’une des raisons principales pour laquelle j’ai choisi il y a quelques années l’île d’Awaji, est que celle-ci se trouve à trente minutes par bateau rapide du nouvel aéroport international du Kansai, et qu’elle se trouvera reliée avant la fin de ce siècle à l’île principale de Honshû par un pont colossal. Elle est ainsi en passe de devenir un lieu d’échanges à haute vitesse, à l’échelle nationale comme internationale : l’évolution des réseaux électroniques lui permettra de développer un environnement informatique qui n’aura rien à envier à celui des grandes villes.

La création artistique n’est pas toujours déterminée par le génie ou l’inspiration d’individus isolés : lorsque que la clairvoyance d’un artiste qui a su prévoir l’évolution d’une époque s’est confronté au regard d’autres artistes, que son atelier s’est transformé en un laboratoire où ont pu avoir lieu de multiples expériences et est ainsi devenu le support d’un mouvement artistique, celui-ci a ainsi créé un lieu social.

Le Bauhaus de la République de Weimar, le Black Moutain College créé en Caroline du Nord aux États-Unis, ou encore le village des arts qu’Ogata Kôrin fonda à Takagamine dans la banlieue de Kyôto, furent chacun des foyers d’activités artistiques sans précédent qui devinrent, grâce aux quelques artistes talentueux qui les établirent, des lieux d’un magnétisme puissant.

En tant qu’artiste, mes activités publiques débutèrent avec la création du groupe Jikken Kôbô (Atelier Expérimental) en 1951. Son nom fut choisi par le poète Takiguchi Shûzô, proche d’André Breton et de Marcel Duchamp, qui introduisit au Japon le surréalisme. Le groupe intermédia qui naquit alors rassemblait poètes, compositeurs, créateurs d’éclairages, photographes, peintres, plasticiens et ingénieurs. Notre première œuvre collective fut la réalisation d’un ballet sur le thème du tableau de Picasso “La joie de vivre”, lors de l’exposition rétrospective du peintre qui eut lieu au lendemain de la guerre.

Bien qu’il fut intitulé “Atelier Expérimental”, la caractéristique des activités de ce groupe fut de se développer sans utiliser de lieu particulier. Dans le Japon de l’après guerre, il était en effet quasiment impossible de posséder un atelier destiné à la création artistique. La condition qui a véritablement présidé la création du groupe fut l’esprit d’expérimentation artistique commun à chacun de ses membres. La communication entre ces artistes s’est poursuivie, et leurs œuvres continuent d’être présentées aujourd’hui.

Le noyau de mes activités fut toujours orienté vers la création de lieux “magnétiques” destinés aux générations futures. En 1960, je formai le groupe Shûdan Gendai Chôkoku (Groupe Sculpture Contemporaine), qui proposait une réfléxion sur les lieux possibles de création de la sculpture et de l’environnement. Celui-ci ouvrit alors une voie vers les espaces publics à la sculpture japonaise contemporaine. En 1971, je fondai le Video Hiroba (Video Plaza) avec un groupe d’artistes qui pratiquaient l’art vidéo, et en 1981, le groupe Âru-Juni (Arts-Unis), qui devint un véhicule d’activités pour les arts électroniques. Alors qu’il se composait d’artistes venus de domaines artistiques autonomes : infographie, holographie, art cinétique, création d’éclairages ou musique par ordinateur, son but fut d’envisager un lien transversal entre ces territoires spécialisés. À partir des années soixante-dix, la création artistique liée aux média commençait à opérer des échanges simultanés avec le monde entier, et il fut de moins en moins pertinent d’envisager la situation géographique du Japon comme un handicap. En 1989, dans le prolongement des activités du groupe Arts-Unis, fut créée la Biennale Internationale de Nagoya (ARTEC), et celle-ci devint un des lieux privilégiés de présentation des arts électroniques au Japon.

En tant qu’artiste, j’ai moi-même développé des œuvres depuis les domaines de “l’art et la technologie” jusqu’à ceux des “arts électroniques”, et ai fondé en 1977 la section Sogô-zôkei (Arts plastiques et média mixtes) à l’université de Tsukuba. Cette section est devenue le premier lieu d’activités pédagogiques dans ce domaine au Japon, et j’y ai enseigné jusqu’en 1993. Les ateliers et les laboratoires de vidéo et d’holographie de cette université ont ainsi donné naissance à un “Bauhaus” de l’époque électronique : vingt-six ans après la fondation du Jikken Kôbô, ce sont devenus de véritables “ateliers expérimentaux”.

Mais dix-sept années se sont déjà écoulées depuis la fondation de ce département, et je vis à présent dans un contexte spirituel collectif différent. J’ai été invité à participer au symposium de célébration de la première présentation mondiale de la Cité des Arts d’Aubervilliers, et, de même sans doute que les personnes qui y sont présentes, je sens une énergie nouvelle pénétrer mon esprit avide d’expériences. J’aimerais présenter ici les activités du Village des Arts de l’île d’Awaji. Les habitants de cette île exercent principalement la pêche et l’agriculture, et les paysages naturels y sont encore très nombreux. Dans un tel environnement où les cinq sens se trouvent ainsi enveloppés, l’homme ressent un sentiment de bien-être car il peut y entretenir des relations interactives sur le plan de la perception. Il s’agit d’un projet d’”artistes en résidence” qui prévoit des habitations, des ateliers, ainsi que des entrepôts et des espaces d’exposition pour les œuvres : le Kankyô Geijutsu Media Center/C.E.A.M. (Centre des Média et Arts Environnementaux) propose de réfléchir aux possibilités de création artistique liée à l’environnement et aux média, dans un espace entouré de paysages naturels.

Avant la fin 1994 sera proposé le plan concret de l’ensemble du projet. En 1995, les voies d’accès seront construites, et la construction du centre débutera dès 1996.

Mon atelier, le Yamakatsu Kôjô, a été achevé en juillet 1994. Il s’agit de l’”Art Factory”, l’”atelier expérimental” du village des arts, qui aura également fonction de centre de recherche et de centre pédagogique pour les jeunes universités d’arts et les jeunes artistes. Le comité exécutif de l’île d’Awaji tient à développer le projet du Geijutsu mura sans tomber dans le piège des frais excessifs d’administration et de construction de grands bâtiments, en préservant son atmosphère de village à l’intérieur d’un environnement naturel exceptionnel.

(Traduction : Christophe Charles)

1948-1959 実験工房と山口勝弘・年譜

1948

「七擢会展」日本橋・北荘園廊、東京

1949

「第1回読売アンデパンダン展」東京都美術館、東京

1950

「第2回読売アンデパンダン展」東京都美術館、東京

1951

1951年11月 「ピカソ祭・実験工房第一回発表会『生きる悦び』」(読売新聞社主催「ピカソ展」・文化部・海藤日出男より依頼)
1951年「第3回読売アンデパンダン展」東京都美術館、東京
1951年11月 横山はるひバレエ団公演「河童」、「困った娘たち」日比谷公会堂/東京

1952

「実験工房第二回発表会・現代作品演奏会」
「実験工房第三回発表会」タケミヤ画廊、東京
「実験工房第四回発表会・現代作品演奏会・園田高弘渡欧記念」
「山口勝弘個人展」松島画廊、東京

1953

1953年9月 「実験工房第5回発表会」における「オートスライド作品」 及び「テープレコーダーのための交響詩」 の上演(東京通信工業 [現SONY] より依頼)
1953年1月より「アサヒグラフ」のコラムページ APNの写真構成(朝日新聞社編集長の飯沢匡よりの依頼)
1953年9月「バレエ実験劇場」(松尾明美バレエ団及び演出の川路明よりの依頼)
「山口勝弘ヴィトリーヌ展」タケミヤ画廊、東京
「抽象と幻想展」東京国立近代美術館、東京

1954

シェーンベレク作品演奏会(1954)
「読売アンデパンダン新人展」養清堂画廊、東京
工芸ニュース 6月

1955

1955年9月 「神の固から谷底みれば」 (日劇ミュージックホール、演出:岡田恵吉より依頼)
1955年12月 円形劇場形式による創作劇のタ「月に愚かれたピエロ」 (演出プロデュースの武智鉄二より依頼)
1955年~1956年 映画「銀輪」 (新理研映画社と演出助手松本俊夫より依頼、特撮協力:円谷英二、音楽:黛敏郎)
「バレエ実験劇場」 未来のイヴ、乞食王子、イルミナシオン
「実験工房室内楽作品演奏会」
「山口勝弘ヴィトリーヌ作品展」和光ギャラリー、東京
「今日の新人・1955年展」神奈川県立近代美術館、鎌倉
「日米抽象美術展」東京都国立近代美術館、東京

1956

1956年2月 「ミュージック・コンクレート/電子音楽オーディション」(実験工房主催、現代芸術研究所 [岡本太郎主宰] と共催)
「実験工房による新しい視覚と空間ををたのしむ夏のエキシビション」(新宿風月堂)
「山口勝弘装飾空間展」 (会場構成:清家清)和光ギャラリー、東京
「フィレンツェ国際工芸展」フィレンツェ

1957

1957年1月―「花柳寿々摂・寿々紫リサイタル」(29日、渋谷・東横ホール)
『松風』構成・演出=武智鉄二, 装置=北代, 衣装=福島
『ファンタジー』音楽=A.吉川太郎, B.黛敏郎, 衣装=福島
『断章』構成・振付=花柳寿々紫, 音楽=鈴木, 装置・衣装=山口
『可愛い乙女』作=矢代静一, 作曲=入野義朗, 振付=花柳寿々紫, 衣装=福島, 装置=北代
1957年2月―第10回「読売アンデパンダン展」山口が金網彫刻「風の方向」を出品。
1957年3月「第一回アルスノヴァ現代音楽のタべ」(第一生命ホール)
1957年6月「実験工房ピアノ作品発表会」(ブリジス卜ン美術館)
1957年8月「実験工房によるサマーエキシビション」(新宿風月堂)

1958

―『美術手帖』特集「明日を期待される新人群」瀧口修造が山口と福島を, 東野芳明が駒井をとりあげている。
4月―「新しい絵画・世界―アンフォルメルと具体」展(12日―20日, 大阪・高島屋)企画=ミシェル・タピエ。福島が油絵, 山口が「ヴィトリーヌ」シリーズを出品。
10月―ポエム・オブジェ展(新橋・ヒロシ画廊) 作品「城の目」。秋山の詩と山口のオブジェ。
「山口勝弘光とガラスによる作品展」(会場構成:丹下健三)和光ギャラリー、東京
「大阪国際芸術際」高島屋百貨店、大阪

1959

「山口勝弘個展」サ卜ウ画廊、東京