1956 「ミュージック・コンクレート=電子音楽」第一回オーディション

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ミュージック・コンクレート電子音楽 オーディションパンフレット pdf

音楽が音を出さなくなってしまってからすでに久しい時が過ぎている。ミュージック・コンクレートも電子音楽もともにこうした無内容な音楽の骨組のなかで失われてしまった音の純粋性、音響のエネルギーを取り戻そうとするものである。それはいままでの一さいの装飾をすてて、人間の生ま生ましい呼吸をサウンド(伝える)するものとしたい。ミュージック・コンクレート、電子音楽とは、従来の音楽が陥ち込んでもた慣習悪と模倣とマニエリズムを徹底的に排する。

そして、いままで誰も踏みいれることのなかった新しい音響の世界に生命力を探究しつづけるものである。鉄道ダイヤのように直線の交叉する作曲コンテ図表のなかから、いま新しい宇宙がひらけようとしているのである。

「ミュージック・コンクレート=電子音楽」第一回オーディションをひらくにあたり、NHK、文化放送、新日本放送、ラジオ九州の各放送局、日本楽器、東京通信工業の各社ならびに各方面の方々が寄せられた絶大なご援助に対しては深く感謝する次第である。これらの方々のご媛助がなくしては、このオーディションも大へん困難なものであったろう。

実験工房

1956-ミュージック・コンクレート電子音音楽オーディション

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「ミュージック・コンクレート 電子音楽 オーディション(1956年2月4日、山葉ホール)山口勝弘によるロープを用いた会場構成
Space construction by Yamaguchi Katsuhiro, Musique Concrète / Electronic Music Audition, Yamaha Hall, 4 Feb. 1956.

1956-Yamaha_Hall_Concert_-Installation-drawing

山口勝弘によるロープを用いた会場構成ドローイング

Drawing of space construction by Yamaguchi Katsuhiro

実験工房とその周辺

実験工房とその周辺

メンバー
北代省三、福島秀子、山口勝弘、大辻清司、駒井哲郎、秋山邦晴、園田高弘、武満徹、湯浅譲二、鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、今井直次、山崎英夫、瀧口修造

その周辺

美術・デザイン評論
瀧口修造、岡本太郎、植村鷹千代、阿部展也、江川和彦、勝見勝、浜村順(小川正隆)

ジャーナリズム
海藤日出男(読売)、飯沢匡(朝日グラフ)、西巻興三郎

グループ
「七耀会」、「アヴァンギャルド芸術研究会」、「夜の会」、「世紀の会」、「プヴォアール」、「グラフィック集団」、「横山はるひバレエ団」、「バレエ実験劇場」(松尾明美)、「三人の会」、「アルス・ノヴァ」、「具体グループ」

舞踊
横山はるひ、川路明、松尾明美、武智鉄二、花柳寿々紫、花柳寿々掻

音楽
芥川也寸志、黛敏郎、柴田南雄、諸井誠、入野義郎、松浦豊明、長松純子

美術
岡本太郎、阿部展也、池田龍雄、ミッシェル・タピエ、斉藤義重、長谷川三郎

映画
松本俊夫、円谷英二

建築
清家請、丹下健三

華道
勅使河原蒼風


グラフィック集団メンバー 1952-1955

顧問 瀧口修造、阿部展也

浜田浜雄、八木治、樋口忠男、佐々木照男、土方健一、辻彩子、伊藤幸作、大辻清司

増田正、杵島隆、橋本潔、村越襄、中村誠、石元泰博、北代省三、伏見文夫、

田中一光、早崎治、篠山紀信、大塚亨

[松屋、小西六ギャラリー、タケミヤ画廊、等で発表]


1948

1948-七曜会-北荘画廊-2-13-004-02

1948-七耀会-北荘画廊-1-13-004-01

1948-モダンアート夏期講習会-34013

1948年 モダンアート夏期講習会受講者記念撮影

1948-モダンアート夏期講習会


1953

1953-北代省三宅でオートスライドを制作する実験工房のメンバー-34009


1953

1953-鈴木博義と山口勝弘-1-13-006-01

1953-鈴木博義と山口勝弘-2-13-006-02

1953-鈴木博義と山口勝弘-3-34005

1953-鈴木博義と山口勝弘-4-13-009-02


1954

1954-実験工房記念撮影-帰国を記念して-シェンベルグのころ-1954年10月-13-002-01

1954-実験工房記念撮影-帰国を記念して-シェンベルグのころ-1954年10月-13-002-02


1955

1955-松本俊夫と山口勝弘-13-005-01

1955-松本俊夫と山口勝弘-13-005-02


1956

1956-ミュージック・コンクレート電子音音楽オーディション-34002


1957

1957-浦安にて-斎藤義重を訪ねる-斎藤、瀧口修造、山口勝弘-1-13-013-02

1957-浦安にて-斎藤義重を訪ねる-斎藤、瀧口修造、山口勝弘-2

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1957-浦安にて-斎藤義重を訪ねる-斎藤、瀧口修造、山口勝弘-13-013-05

1957-浦安にて-斎藤義重を訪ねる-斎藤、瀧口修造、山口勝弘-34004

 

1948-1959 実験工房と山口勝弘・年譜

1948

「七擢会展」日本橋・北荘園廊、東京

1949

「第1回読売アンデパンダン展」東京都美術館、東京

1950

「第2回読売アンデパンダン展」東京都美術館、東京

1951

1951年11月 「ピカソ祭・実験工房第一回発表会『生きる悦び』」(読売新聞社主催「ピカソ展」・文化部・海藤日出男より依頼)
1951年「第3回読売アンデパンダン展」東京都美術館、東京
1951年11月 横山はるひバレエ団公演「河童」、「困った娘たち」日比谷公会堂/東京

1952

「実験工房第二回発表会・現代作品演奏会」
「実験工房第三回発表会」タケミヤ画廊、東京
「実験工房第四回発表会・現代作品演奏会・園田高弘渡欧記念」
「山口勝弘個人展」松島画廊、東京

1953

1953年9月 「実験工房第5回発表会」における「オートスライド作品」 及び「テープレコーダーのための交響詩」 の上演(東京通信工業 [現SONY] より依頼)
1953年1月より「アサヒグラフ」のコラムページ APNの写真構成(朝日新聞社編集長の飯沢匡よりの依頼)
1953年9月「バレエ実験劇場」(松尾明美バレエ団及び演出の川路明よりの依頼)
「山口勝弘ヴィトリーヌ展」タケミヤ画廊、東京
「抽象と幻想展」東京国立近代美術館、東京

1954

シェーンベレク作品演奏会(1954)
「読売アンデパンダン新人展」養清堂画廊、東京
工芸ニュース 6月

1955

1955年9月 「神の固から谷底みれば」 (日劇ミュージックホール、演出:岡田恵吉より依頼)
1955年12月 円形劇場形式による創作劇のタ「月に愚かれたピエロ」 (演出プロデュースの武智鉄二より依頼)
1955年~1956年 映画「銀輪」 (新理研映画社と演出助手松本俊夫より依頼、特撮協力:円谷英二、音楽:黛敏郎)
「バレエ実験劇場」 未来のイヴ、乞食王子、イルミナシオン
「実験工房室内楽作品演奏会」
「山口勝弘ヴィトリーヌ作品展」和光ギャラリー、東京
「今日の新人・1955年展」神奈川県立近代美術館、鎌倉
「日米抽象美術展」東京都国立近代美術館、東京

1956

1956年2月 「ミュージック・コンクレート/電子音楽オーディション」(実験工房主催、現代芸術研究所 [岡本太郎主宰] と共催)
「実験工房による新しい視覚と空間ををたのしむ夏のエキシビション」(新宿風月堂)
「山口勝弘装飾空間展」 (会場構成:清家清)和光ギャラリー、東京
「フィレンツェ国際工芸展」フィレンツェ

1957

1957年1月―「花柳寿々摂・寿々紫リサイタル」(29日、渋谷・東横ホール)
『松風』構成・演出=武智鉄二, 装置=北代, 衣装=福島
『ファンタジー』音楽=A.吉川太郎, B.黛敏郎, 衣装=福島
『断章』構成・振付=花柳寿々紫, 音楽=鈴木, 装置・衣装=山口
『可愛い乙女』作=矢代静一, 作曲=入野義朗, 振付=花柳寿々紫, 衣装=福島, 装置=北代
1957年2月―第10回「読売アンデパンダン展」山口が金網彫刻「風の方向」を出品。
1957年3月「第一回アルスノヴァ現代音楽のタべ」(第一生命ホール)
1957年6月「実験工房ピアノ作品発表会」(ブリジス卜ン美術館)
1957年8月「実験工房によるサマーエキシビション」(新宿風月堂)

1958

―『美術手帖』特集「明日を期待される新人群」瀧口修造が山口と福島を, 東野芳明が駒井をとりあげている。
4月―「新しい絵画・世界―アンフォルメルと具体」展(12日―20日, 大阪・高島屋)企画=ミシェル・タピエ。福島が油絵, 山口が「ヴィトリーヌ」シリーズを出品。
10月―ポエム・オブジェ展(新橋・ヒロシ画廊) 作品「城の目」。秋山の詩と山口のオブジェ。
「山口勝弘光とガラスによる作品展」(会場構成:丹下健三)和光ギャラリー、東京
「大阪国際芸術際」高島屋百貨店、大阪

1959

「山口勝弘個展」サ卜ウ画廊、東京

1996 「1953 年ライトアップ」展 「実験工房」

「1953 年ライトアップ」展図録より
目黒区美術館1996年

実験工房
山口勝弘

「実験工房」が、一つの集団として活動を始めてから、すでに45年を経ている。もしグループのメンバーが、工房へ向けて集まりだした時期を、前期として含めるならば1948年という時点からになる。つまり半世紀近い以前になる。
しかし今なお、「実験工房」とは何だったのか、どんな活動を行なっていたのかについて、明確な輸郭が摑めない。その集団としての活動期は、1958年頃をもって終りを迎えているが、各メンバーはその後、この工房の実体解明にかまけていたわけではない。むしろ「実験工房」のイデーは、その後の工房メンバーの仕事の中に引き継がれ、時には共同の仕事としてなお活動が続けられているのである。

ただ昨年は戦後50年という年に当り、また近年いろいろな戦後史の回顧が始まり、この正体不明の芸術活動の解明が求められてきた。
今度開かれる「1953年ライトアップ——新しい戦後美術像が見えてきた」展でもそうした機会を与えられて、実体解明を行なわなければならないのである。ところがこのサブタイトルにある戦後美術像というのが問題になってくるのである。すでに現在、歴史を語る場合このような戦後美術像とか、現代美術史という言葉を選ばざるを得ない。しかし美術という枠からこの工房を眺めてみると、その実体はぼやけてしまう。
この最も根本的な理由を解明しなければ、われわれの工房の実体も見えてこない。ということに実は私も最近になって気付いた。
その理由の一つは外部的なもの、つまり社会的なものであり、もう一つは内部的なもの、つまり工房自身にあったのである。ではまず外部的な理由を考えてみよう。先にも述べたように戦後50年経ってみると、日本の戦後美術史は、次第にある枠にはめられ、また何回となく語られることにより、内容的にも一つの物語となってきている。物語が形成されてゆくと、当然いくつかの常套語が生まれ、歴史の真実はある共通認識に集約されてゆく。こういう戦後日本美術史の形成過程の中で、美術という領域を限定する時、すでに「実験工房」の活動領域がそれ以外の領域へ拡がっていたことが災いとなっている。つまり、西欧やアメリカの戦後美術史を基準としてみると、「実験工房」と比較される「具体」グループの場合は、絵画を中心とした表現とパフォーマンスを中心としたニつの領域にほぼ限定され、それら二つとも戦後美術史形成の流域から外れていない。むしろ中心の流れに属し、しかも西欧やアメリカを中心に編成されてゆく美術史の中に織りこみ易い活動なのである。しかも日本の美術史家にとってもこうした評価は、日本の現代美術史のアイデンティティを提示する場合、容易に認めることができる点なのであった。
その例として1989年のパリのポンピドゥ・センターの「前衛芸術の日本 1910-1970」展や、1994 年の横浜美術館の「戦後日本の前衛美術展」でも「実験工房」の全貌に焦点を当てることができなかった。その理由は、むしろこの工房内部の中にあった。あるいは「実験工房」は美術史の対象として採り上げるべきではなかった。あるいは現代音楽史の対象として採り上げるべきではなかった。そうした限定された専門領成が形成されてしまった1990年代の見方では捉えるのが難しい活動内容であった。つまり一般の埋解を拒んできた最大の理由は「実験工房」自身の中にあったと思うのである。
その理由の解明に入る前に、一つだけ触れておきたいことがある。去る1991年に「第11回オマージュ瀧口修造 実験工房と瀧口修造」展が東京の佐谷画廊で開かれたのは、 1951年の工房結成以来初めての客観的な評価対象としての展覧会だったのである。しかもA4版130項を超えるカタログ出版は、ー画廊で出すべきものというより、第一級の美術館のなすべきものであった。この展覧会とカタログによる記録の整理によって、ようやく工房の活動内容が見えてきたのである。私自身、工房の美術活動の範囲についてまとめ、秋山邦晴は音楽活動の範囲をまとめた。
しかし、今回の展覧会に際しもう一度工房の活動を検討し、その内容を分祈してみると前回の「実験工房と瀧口修造」 カタログの中で、まだ解析が不充分であったことに気付いたのである。その点が、実は「実験工房」の正体不明な活動内容を解明する最大の鍵ではないかとさえ考え始めたのである。
「実験工房」の活動は、すでに述べたように、美術や音楽というアートの領域から逸脱し、むしろ多領域的な活動内容をもっていた。しかしもっと別の視点からみると、戦後日本の新しい文化形成期における社会的運動体だったのではないか。少なくとも専門化したアートの分野から絶えずはみだそうという遠心的なエネルギーが強力に働いていたのである。
このグループのもっていた加速する遠心力の働きを示唆していたのが、漉口修造であった。武満徹のいう精神のパトロン。
ではこの工房の特徴について、もう少し具体的な解析を加えてみよう。まずグループの形成過程は、1948年夏に開かれた「モダン・アート夏期講習会」主健日本アヴァンギャルド美術家クラブの終了後、約10名のメンバーが集まり、北代省三宅で会合をもつことになった。この中のメンバー7名は4カ月後、「七耀会」という展覧会を開き、工房のメンバーの北代、福島秀子、山口がそれぞれ抽象画を出品する。その翌年、音楽の方の核となる動きとして早稲田大学仏文科に在学中の秋山邦晴が、「現代音楽研究会」を組織し、やがて慶応大学医学部の湯浅譲二と知り合う。山口は1947年頃から、東京有楽町にアメリカの民間情報教育局が開設したCI&Eライブラリーに出入りし、新着の図書、雑誌を手にすると同時に、毎週間かれていたレコード・コンサートで新譜の現代音楽に親しみ、やがて解説を手伝っていた秋山の存夜を知る。こうして1950年にかけ美術の核と音楽の核が次第にエネルギーを増し、やがて武満徹、福島和夫、鈴木博義などと美術のメンバーとが会合をもつに至る。
こうした偶然と必然の分かちがたい働きの中で1950年代初めの時期、世界でも稀なインターメディアを目指したグループが形成されてゆくのである。
ところで、このような萌芽期にメンバーの交流にスパイスとなっていたのは、北代の専門分野であり、また彼の好奇心の強い対象であった理工学の知識であった。ビッグバンに始まる宇宙の生成から物理学とくに量子力学などの最新の知織であった。後に「実験工房」の活動が、当時の日本では珍しい科学技術的傾向から構成主義への近接があり、またミュージック・コンクレートや電子音楽に関心をもっていったのも、こうしたスパイスの働きがあったからであろう。
ところで、いま述べた背景それ自体も工房の性格に影響を及ぼしたと思われるが、何より最も特徴的なことは、すでに第1回の発表であるバレー「生きる悦び」が、スポンサーである読売新聞社の依頼によるものだという点である。またその後の工房内の共同制作の発表のほかにも、他分野のアーティストからの依頼や、他分野のプロデューサーから持ちかけられた企画に協力してゆく。工房メンバーに限定された発表ではなく、そのつど、いろいろなチーム構成で仕事をしているところが非常に珍しいのである。つまり「実験工房」というグループに属してはいるが、固定したメンバーだけで活動していたわけではないのである。また発表の対象も展覧会や演奏会のほかに、ステージを対象とした異なった分野の人たちも加わった総合的な発表の方が、むしろ多かったのである。
「実験工房」といいながら物理的な工房のない、いわばバーチャルな工房によるアーティスト群であり、また非常に流動的な仕事の展開が行われていたのである。別の言葉で言えば、早くからプロジェクト・チームのような態勢で仕事を行ってきたのが実体であろう。さらにこうした活動の方向を積極的に推進していたのが瀧口修造のその当時の思想であった。また瀧口修造と同じぐらいこの工房に期待していた岡本太郎も同様な考えをことあるごとに書いてくれたのである。既成の価値観を認めず、日本人的なムラ社会化する美術や音楽の分野にはない新鮮さが、当時の工房が行っていた活動スタイルであり、その特異性が社会的評価となっていたのである。
「実験工房」の第一回発表会で、当時のメンバーのほとんどが、こうした総合的なワークショップの方法を手探りで始めたのである。
ピカソ祭の「生きる悦び」では、振付師 兼 ダンサーとして益田隆、バレリーは谷桃子を迎えている。このバレエ公演は、直接的には読売新聞社からの依頼という形をとっているが、工房形成期である1950年に、すでに北代と今井は横山はるひバレエ団の「失楽園」の舞台美術を抽象的な造形で行ない、51年にも同じバレエ団の「河童」などで舞台美術と照明を行なっている。なおこの二つのバレエの音楽では芥川也寸志と黛敏郎が作曲している。こうした背景の中で1951年メンバーの会合の中で、展覧会の企画がもち上がっている。しかもこの展示会が、作品を並べる形式のものではなく、会場そのものを造形的形態とする方法や、バレエの装置の展示や、作品を音楽と結びつけたり、さらに展示に照明を結びつけ機械的機構による動的効果を与える方法などが考えられていた。
また独自のバレエ上演についても討議され「美女と野獣」がテーマとして挙げられていた。こうした雰囲気と着火寸前のエネルギーがたまっていたグループにピカソ祭のバレエ上演のチャンスが巡ってきたのである。したがって1952年の実験工房第2回発表会以来、現代音楽の演奏会場に造形的オブジェや照明による演出が加わったのは、上記の工房が目指していたインターメディア的方法論の実践であった・
またこのインターメディア的思考は、言い換えればインターアーティスト的な考えにも通じるものであった。したがって他の分野の様々なアーティストとのプロジェクトチームによる発表方法がとられたし、第2回発表会のプログラムを見れば分かるとおり、オリビエ・メシアンをはじめコープランドやバルトークなどの海外作曲家の初演を行っている。また公演のパンフレット、チラシ、切符などはすべて工房のデザインである。
工房の発表方法は演奏会のほかに第4回読売アンデパンダン展への工房の共同制作によるレリーフ作品の発表があり、工房の第3回発表会は造形部門を中心とした発表である。この場合も発表会という名称をとっていることに注目したい。同年8月の第4回発表会で、初めてサティやメシアンと並んで工房メンバーの武満、湯浅、鈴木の新作が発表されている。
1953年になると工房の企画ではないが「アサヒグラフ」のコラム・ページ「APN」のカット写真構成が始まり北代、山口、駒井及び写真撮影で大辻が加わる。ここでも斉藤義重、勅使河原蒼風、長谷川三郎、浜田浜雄などが加わり交流が起こっている。またその頃、大辻は阿部展也、瀧口修造を顧問とする「グラフィック集団」に属し写真を中心としたグラフィック・アートのグループに入っている。このグループは後に浜田、北代なども入り石元泰博もメンバーになっていたこともある。したがって工房はこの集団とも親しく交流していた。
またこの年には第5回発表会が開かれ「アサヒグラフ」編集長・伊沢紀の紹介によりスライド投影機と音をシンクロさせた「オートスライド・プロジェクター」を開発した東京通信工業(後のSONY)と関係をもち、この装置を生かした映像音響作品の制作にメンバー全員が参加した。この映像への関心はすでに工房の中で映画の実験への関心が高まっており、小西六などとカラーフィルムによる撮影の可能性を探っていた。また後に実現した映画「モビールとヴィトリーヌ」の試作もこの頃からスタートしていたのである。
この第5回発表会は作曲グループの発表のほかに、秋山による「テープレコーダーのための詩」と次の4本のオートスライド作品が作られた。

「水泡は創られる」構成:領島秀子/音楽:福島和夫
「レスピューグ」構成:駒井哲郎/音楽:湯浅譲二
「試験飛行家W.Sの眼の冒険」構成:山口勝弘/音楽:鈴木博義
「見知らぬ世界の話」構成:北代省三/音楽:鈴木博義、湯浅譲二

1954年には実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が行なわれ、「月に憑かれたピエロ」のほか全曲が日本初演であった。
1955年には松尾明美バレエ団と工房の共同発表が行なわれ、「イルミナシオン」、「乞食王子」、「未来のイヴ」のそれぞれを山口、福島、北代が装置・衣装をデザインしているが、作曲の方は芥川、黛、武満といった具合に工房以外の作曲も入っている。この年には工房の核エネルギーは様々な社会的展開の機会をえて拡がってゆく。
関西で実験的な歌舞伎の演出を行っていた武智鉄二は工房の活動に注目し、シェーンベルグ「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「稜の鼓」への協力を依頼する。また日劇ミュージックホールからは、岡田恵吉演出の「神の国から谷底を見れば」というボードビルの舞台に映像、造形、音楽による協力を依頼される。これはおそらく戦後わが国の舞台デザインで本格的な映画とスライドによる映像の演出として、初めてのことであり、ことに3面マルチによる上映は1970年の大阪万国博の頃になって試みられるようになったものだった。
一方新理研映画が「日本自転車工業会」から制作を依頼されていたPR映画「銀輪」は、演出助手の松本俊夫の発想でもっと実験的な映画の試みが考えられ、「実験工房」に協力を求めてきた。
この映画は今までのPR映画の常識を破るもので、自転車の夢をみる少年の幻想を抽象とシュルレアリスムの手法を探り入れながら描いたものとなった。同時に技術的実験としては東宝の特撮監督の円谷英二の協力を仰ぎ、カラーによる特撮としては日本初の映画となったものである。
その他、音楽の方では工房メンバーの作況かはそれぞれ独自の作品を発表すると同時に、様々なインターメディア的発表に協力し未知の新しい分野を開いていった。「実験工房」の活動が知られてくると、工房は当時の日本における革新的な運動体とみられるようになり、やがては1956年の「ミュージック・コンクレート・電子音楽オーディション」のように新しい実験のプロデュースを行うことになる。この時は主催「実験工房」であり、岡本太郎の「現代芸術研究所」、NHKなどが後援という形をとっている。また発表者は黛敏郎、諸井誠、柴田南雄、芥川也寸志、武満徹、鈴木博義(「試験飛行家W.S氏の眼の冒険」山口勝弘の音楽)などが集まり、会場の客席には、山口によるロープを用いた放射状の空間構成で環境をつくった。
こうした幅広い活動を通して実験を重ねたことが、工房メンバーのその後のアーティストとしての精神の核となったことは間違いない。常に時代の方向を見据えながら新しい科学技術をもっている可能性を摂取し、その技術を人間化し、新しいセンセイションを表そうとしていた。しかし同時に日本の伝統的な芸術表現の核とその文化的本質を捉え、それらをそれぞれの作品の中に醸しだす努力を忘れていなかった。
拡がってゆく工房の方向を、時には仲間の一人として時には第三者として注視し続けていたのが瀧口修造という存在であった。時には厳しい批判を述べ、しかしながら切り捨てることなく、更に無限の可能性が開かれている先を見透そうとしていたのが瀧口修造であった。なぜこれほどまでに瀧口修造が実験精神ということにこだわり、そこから生まれたものを、より多くの公衆との共有を目指したのかといえば、まさに瀧口本人が1950年代に未来の芸術を、こういう姿のものとして思い描いていたからに他ならない。
瀧口修造は常に実践者であり、しかもユートピアンであった。「実験工房」はただの一度も大仰な宣伝文を発表していない。むしろ様々な実践の中から人々に伝わっていくものを信じていた。それだからこそ形のない工房として精神の実験を続けることができたのであろう。
なお「実験工房」の成立期に瀧口によって書かれた多くの文章には、「実験工房」の活動の方向性とその可能性について述べられたものが少なくない。例えば「実験工房第二回発表会」プログラムには「実験の精神について」という文章が寄せられ「これから世界の芸術と呼吸を通じ合うためには、もっともっと、つよい思想をもたねばなりません。それには私は何よりも実験精神を養うことが必要だと思います」と述べ、実験といっても実験室だけの現象ではなく、社会や現実にふれることの必要性を強調している。また1952年の「美術批評」5月号には「芸術と実験」という論文により、科学と芸術における実験の意味の違いを述べると同時に、今日の写真や映画やラジオやテレビなどの機械を通した芸術表現の登場期にも、多くの芸術家が開拓期に実験を重ねていることを述べている。また「芸術はより大きな公衆をもつことは望ましいが、今日の時代で新しい芸術は実験期を必要とする。それを飛び越えて大きな公衆と結びつこうとするころに商業主義的なジェスチェアが生まれる。モダン・アートが軽薄なモダニズムと混合されるのは、主にこういう場面であると考えられる。しかし真の公衆が最後に芸術に求めるものは、おそらくこういうジェスチェアではあるまい」と書かれている。

2000 「ジャンルの横断—実験工房」

「万歳七唱 ~岡本太郎の鬼子たち~」展
講座『アヴァンギャルドの冒険』第3回 1996年5月27日(土)

「ジャンルの横断—実験工房」
山口勝弘

表現分野を自由に横断しながら、その都度のプロジェクトと発表の内容に従って必要なメンバーがチームを作り計画を立て実現化する。実験工房の活動が時に明確なスタイルとして見えない理由は、このような活動方法を継続していたからである。
1951年から1957年まで18のプロジェクトによって実験工房としての活動が行なわれている。

実験工房の成立前1948年頃からの各メンバーの出会いから流動的な発表活動と研究活動の始まりを含めると約9年間になるがこの間の記録を調査すると岡本太郎との濃密な関係は、瀧口修造や粛藤義重との関係と交差しながら工房へ大きな影響を及ぼしている。

工房活動の性格を作り上げている思想的星雲のなかで重要な要素として芸術の社会的な場への積極的な関与あるいはメディア的な思考を含め次のような問題を中心にとり上げてみたい。

(1)絵画制作に関するメディア的思考

1950年代初めにカオス的状況にあったアヴァンギャルド運動のなかで、北代と山口によって思考されていた絵画作品の複数制作についての提案

①1950 年8 月12 日の北代による造画術の発表
絵画における複製とその意義について述べているがその中でキャンパス若しくはパネル上に筆によって描かれる工芸的手法をとっている。一方観賞方法は展覧会に展示されるかコレクターに所有されて限定された人びとにしか見られるチャンスがない。それに対して文学作品の出版、音楽作品の演奏とレコード化などより多くの機会を通して社会の中に流通しうる。とくに映画の場合はより大きな影響力を及ぼすことができる。
新しい版画としての印刷術と絵画制作方法の革新について「造画術」という工学的技術の導入を図る。

② 1950年 10月 21 日(山口日記より)
オブジェに当てられた光線により作られた影がそれ自身一つの絵画的空間として独立し、オブジェに仕掛られたメカニズムによって従来の絵画が表現しなかった運動を2次元上の空間にみせる試みの可能性。それは2次元空間と3次元空間の透入を図り、3次元空間のオブジェと2次元空間の運動する影をそれぞれ独自の存在として価値づける。 将来の壁面装飾の活用の道がある。

③ 1950年 12月 21 日(山口日記より)
北代氏の考える版画論より現実的な絵画複製論の提案。
作曲家の作品を色々な解釈で演奏家が表現するように作者自身が複製を行うのみならず、 製作者が寸法を変えたり材質感を変えたりモチーフのアレンジを行っても可能なリペインテッド(再絵画)の権利を保証する画作権を法律的に認める。
従来の絵画作品は創作者としての芸術家と製作者としての芸術家がl人に専属していた。 一品性のものであり過ぎたためヴァレリーカ時嘆に似た言葉で述べていたように最も古い型の労働者である画家の経済的自立のために、同じ絵を何回でも描けるような技術の改良
(他人により 10枚20枚の複製可能な描き方の)を提案している。※

(2)造形制作及び作曲活動における技術的可能性の実験が試みられる

①ピカソ祭「生きる悦び」このバレエ上演に際し上演中に特殊効果の部分があり秋山の詩(音声)とメトロノームの音のテープ上の合成が行なわれ、音響と造形作品と色光照明の効果が総合された。

②「実験工房第 5回発表会」における「オートスライド作品 J及び「テープレコーダーのための交響詩」の上演
スライド投影装置とデープレコーダーによる映像と音響の上演プログラムの同期を図る装置が東京通信工業(現 SONY)で開発されその装置によるマルチメディア作品の制作の依頼を受ける。一方秋山はテープレコーダーに録音される詩と音楽のテーフ上ての加工手法に基つく音響詩を提案した。すでに第1回発表の時からミュージックコンクレートの可能性と新しい櫛駒導入に積極句だった工房はマルチメディア型のソフト制作を行った。

③「バレエ実験劇場」
松尾明美バレエ団と実験工房のコラボレーションで行なわれ作曲に芥川也寸志と武満が参加。

④「神の固から谷底みれば」
日劇ミュージックホールと実験工房のコラボレーションが行なわれヴィトリーヌによる舞台装置と、スライド2面 映画l面の3面スクリーンによるマルチプロジェクションが行なわれる。

⑤「円形劇場形式による創作劇の夕」
演出家武智鉄二と実験工房のコラボレーションが行なわれ、シェーンべルグの「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「綾の鼓」の上演に協力し、とくに能や狂言のデザインを尖鋭化した北代と福島の舞台デザインと仮面や衣装が特色を生んだ。

⑥映画「銀輪」
新理研映画と実験工房のコラボレーションによる制作で、松本俊夫と円谷英二の協力によりシュールレアリスム風及と抽象映像のため特撮の映画デザインに工夫を重ねると共にフィルムの特殊処理を実験する。

⑦「ミュージック・コンクレート/電子音楽オーディション」
現代芸術研究所との共催により黛敏郎、柴田南雄、芥川也寸志などの参加による新しい時代の音響世界のデモンストレーションを行なう。

(3)この頃新しい音響についての理論的条件について考えていたこと

「オートメーションによる作曲」北代省三美術批評1956年1月号
ここで考えられている作曲は、コンピュータ・ミュージックの基本的原理を述べているもので、音楽表現にまつわる従来のいわく言い難い神秘性や、演奏家のクセなとについて新しい技術観の導入によって失なわれるものの是非を問うているのではない。ミュージック・ コンクレートや電子音楽の可能性を拓くための基本的条件を述へている。こうした北代の理論をもとに作曲家グループをはじめとする工房メンバーは討論を重ねていたのである。

(4)山口勝弘による「ヴィトリーヌ」(瀧口修造命名)の新しい空間造形 としての展開の可能性とその実践について

瀧口修造は次のように述べている。「一種の空間の音楽として鑑賞すればよいので、新しい建築の新しい装飾として推奨したいと思う。」
「海外の国際見本市の展示あたりに生かしたら面白いと思う。」
「現代のこうした芸術と建築を結ぶ機会ほど暖かな希望を抱かせてくれるものは、私にはありません。」
1954年以来3回にわたる銀座和光ギャラリーでの展示計画に第l回高村英也、第2回清家清、第 3回丹下健三により展示方法やデザイン計画に協力をえている。 またそれと平行して看板デザインやインテリアなと、への応用デザインも試みられている。

※これらの構想から約l年後、山口は「ヴィトリーヌ」という新しい表現手段の実験的制作を始める。その作品の構造からみて後に瀧口修造は「絵画とオブジの両棲類」と述べている。また山口は1953年「ヴィトリーヌ」の構造について「実用新案権」(No.1061) を取得している。