1989 ARTEC

「アーテック・夢と感動の世界」

メイテックスペシャル CBC報道局による、ARTEC ’89のドキュメンタリー、山口勝弘インタビュー、1989年7月9日。
“ARTEC : a World of Dream and Emotion”, TV Documentary by CBC about ARTEC ’89 (Nagoya), with interviews of Yamaguchi Katsuhiro, July 9, 1989.

 

1969 現代日本美術展と私

1969-現代日本美術展と私-6x6

「現代日本美術展と私」山口勝弘
三彩 1969年7月 No. 246

第9回現代日本美術展
主催:毎日新聞・日本国際美術振興会
会期:1969年5月10ー30日
会場:東京都美術館

現代日本美術展について、中原佑介氏のかわりに書くことを引きうけ、果して、自分が批評家のかわりに何か書くことができるのか、と自問したとたんに、自分が書きたいことは何かと考えこんでしまった。
実は4月25日から一カ月間、JEAAなるグループとソニー企業によって、エレクトロマジカ69という展覧会を企画し実現し、いろいろなことで、頭の中の問題を少し整理する必要があったし、まだその整理をまとめるのに十分な時間がもてない状態なので、この原稿も、おそらくは中途半端になってしまうのではなかろうか。現代日本美術展には、私自身、迷路の部屋の出品にまぎれこみ、予想以上に部屋がせまくて、制作した物を並べるのに意図した効果がでなくて、がっくりしていたし、その展覧会も終って、またたくまに、大量な金網の立体と、フォーム・ラバーの 80cm × 80cm × 80cm の立体が、私の手元へ戻ってきて、その仕末になやんでいるのが、いまの私の状況であるから、これまた適当なコンディションではない。
一体、なんのために現代日本美術展などに出品したのだろう。こういった反省にちかい後悔の気持をもつのは、作家としてほめられたことではないが、おそらく、美術批評家といった肩書の人たちには、全く縁のない気持であることは間違いない。
(後略)

「現代日本美術展と私」- 三彩 – 1969年7月 – No24 pdf

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2000 ’70年万博再考 – 総合的な演出空間の創造

シリーズ’70年万博再考
総合的な演出空間の創造
山口勝弘 環境芸術家

概要

1960年代の芸術は、時代の雰囲気を吸いながら芸術作品という対象の制作から次第に離脱してゆくのである。環境芸術という言葉がすでにそういう兆候を示しているのである。すなわちいままでの芸術はそれぞれの表現分野の枠の中で、ある定められた形式によって、求心的な存在となっていたのである。美術でいえば、それは絵画という表現であり彫刻という表現であった。つまり作品は近代を通してこういう形成の中で存在し、また受容されていたのである。しかし環境という条件の中で作品という存在を考えた場合、形式によって枠づけられた条件は、環境という周囲をとりまく条件によって相対的なものとならざるを得ない。もっとはっきり言えば、作品を規定していた分野の境界が不分明となり、場合によっては作品という求心的存在が融解し、環境そのものになってしまうことすら考えることを許してしまう。造形芸術のとるべき姿にあった素材感や形態感が失われてゆくのである。そして作品の素材や形態の中に機械的なイメージが導入され、キネティックな運動感が加えられても、まだ作品という形式は最終的に存続していたのである。しかし人工的な光が作品の素材にとって変わり、その光が周囲の環境の中に拡がってゆくと共に、作品は形態の枠によって規定されなくなっていった。1960年代の造形作品はキネティックアートとライトアートの二つの方向から環境性を強く意識させたのである。

このことは、1960年代を特徴づける三つの展覧会のタイトルの中に十分読みとることができる。「色彩と空間」 展(1966年 南画廊)、「空聞から環境へ」展(1966年 松屋)、「現代の空間’68<光と環境>」 展に共通しているのは、空間を色彩とか光によって環境化していくという方向である。もちろんそれぞれの展覧会に出品された作品の内容を見ると単純にはくくれないが、とにかくタイトルの中には、こうした新しい造形のリテラシーが求められていたことは事実である。

1966年には日本でも1970年の大阪万国博への参加を目的としたグループが結成され、展覧会とイベントが開催された。「空間から環境へ」というタイトルが示しているように、作品展示を行うと同時に観客のために新しい人工的環境を提案することを狙っていた。

またこのグループのメンバーには、建築家、グラフィックデザイナー、インダストリアルデザイナ一、画家、彫刻家、造形作家、映像作家、音楽家などが含まれている。

そして直接博覧会を目指してはいないが、アメリカでも芸術家とエンジニアの協力によるインターメディアを目的としたグループ「E.A.T.」 が結成され、ここでも電子技術、音響技術、映像技術と芸術が協力し、さらに舞踊家が参加したいわゆる大空間でのパフォーマンスが行われた。

また万博に参加した外国パビリオンでも、アメリカ館、コカコーラ館、ドイツ館、フランス館、スイス館、カナダ館などでは前衛的なアーティストやデザイナーが協力していた。こうした状況の中で、マスメディアは各パビリオンの入場者数の集計をテレビの視聴率のように発表した。この結果、前衛的な芸術家の実験的手法と大衆性が、必ずしも一致しない結果となり、アート&テクノロジーの時代的潮流は1970年以降一時退潮してゆく、しかし1970年代に入るとビデオアートとコンピュータグラフィックスがExpo’70の映像メディアをさらに尖鋭な方向へ進めてゆく。

1960年代の時代的動向

電子工学技術は、最初に宇宙ロケットの制御システムに利用され、同時にシステム・エンジニアリングの手法によって閉鎖型プロジェクトの実施に応用された。これに対し、芸術家たちが用いる技術システムは、即興性とアナログ性の高い人間のパフォーマンスに結びついて用いられた。したがっていわゆる「人間=機械系」といっても、まったく異なった発想を出発点としていたのである。

「E.A.T.」の活動は、ベル・テレフォン研究所の技術者ビリー・クリューバーを中心に、ラウシェンバーグや、ロバート・ホイットマン、ジョン・ケージ、アレックス・へイ、デビィッド・テュードアなど美術、音楽、舞踊など多領域からの参加者によって行われた。

その中でも、1966年に、ニューヨークの旧兵器廠(有名なアーモリー・ショーの聞かれた建物)で、「演劇とエンジニアリングの九夜」というイヴェントがひらかれ、これが芸術と技術の新しい結びつきを示す大きな出来事となった。ここで新しいというのは、閉回路テレビ系や、シンセサイザーを組み込んだ音楽の演奏を含めて、メディア指向の強い演出が行われた点である。また演奏者と観客との間の区別を取り払い、いわゆる観客参加の上演形式が目立った。

この観客参加という形式は、1950年代末からアラン・カプローによって始められたハプニングの延長線上にあり、ハプニングがよりインター・メディア化し、また電子工学の新しい技術と結びついたものが、この「E.A.T.」のパフォーマンスの特徴となっていった。

すでに「E.A.T.」のパフォーマンスが、これらの装置をメディアとして利用していたように、音楽の分野では1960年代に入ると電子音楽の実験が始められていた。西独のケルン放送局の電子音楽スタジオは、そうした活動に関心を持つ音楽家のメッカであった。

やがてフランス、アメリカ、日本などでも電子音楽スタジオの実験活動が始まる。美術の分野でもコンピュータにプログラムされた図形を、XYプロッターで紙面上に描き出す方法が考えられ「コンピュータ・グラフィックス」が実現する。さらに、これらの図形を連続的に変化させ、一本のフィルム上に記録させるコンピュータ・フィルムの実験が始まる。アメリカのスタン・ヴァンダーピーク、ジョン・ホイットニーはコンピュータ・フィルムの先駆者である。とくにスタン・ヴァンダーピークは、自分の家に小型の半球ドームを建て、そこにマルチプロジェクション装置を置き、映画の環境的展示に興味をもっていた。

ではなぜ前衛的な芸術家たちが動員されたのかといえば、おそらく次の二つの理由からだろう。

一つの理由は、この万国博では直接的な商品展示が禁じられていたことである。したがって芸術的な展示によるパビリオン間の競争が起こった。

二つ日の理由は、1番目の理由とも関係するのだが、わが国の工業技術社会のハードウェアは、ほぼ世界水準に達した。そこでそれらのテクノロジーの利用技術、つまりソフトウェアの開発に対する産業界の期待があった。

時あたかも、ミニスカートとビートルズの時代、つまり大衆文化の中にファッション現象の新しい展開が始まっていた。この大衆文化社会の新しいエポックを可能にしたのは、情報とそれらを伝達する新しいメディアの力に負っている。
1970年の万国博は、ある意味で情報化社会への導入的役割を果たしたのである。ここでいう情報化社会というのは、情報に対する社会的関心が高くなり、情報そのものに対する価値評価が高くなってゆく社会を示している。1960年代の半ばからコンピュータの導入が、社会の各分野で本格化するとともに、コンピュータ・アート、つまりコンピュータによる芸術が生まれている。しかし、コンピュータ・アートも、むしろ70年代に入って着実な展開をとげる。

ところで万国博の芸術的成果を考えると、一つはモニュメンタルな建築技術上の実験が行われたことだろう。富士パビリオンの空気構造による巨大建築物、パイプによる世界最大の構造体となったお祭り広場の大屋根、また各国パビリオンを含めて、事務所的建築物ではなく表現的な建築物について、世間の関心を集めたことも一つの成果となった。とくにパビリオン内部の演出的空間構成の場で、造形家たちの技術が利用されたのである。

この万国博が一種の映像博といわれたように、マルチ・プロジェクションの手法が開発され、太陽の塔内部の粟津潔のプロデュースによる「マンダラマ」、東芝IHI館の泉真也のプロデュースによる「グローバル・ビジョン」、富士グループ館のマルチ・プロジェクション、せんい館の松本俊夫による「アコ」、三井グループ館の山口勝弘による「スペース・レヴュー」などがあった。その他「E.A.T.」のグループと中谷芙蓉二子によるぺプシ館の演出は、惜しくも企業側の意見により会期半ばで中止されてしまった。また鉄鋼館では、武満徹の音楽と宇佐美圭司のレーザ一光線の演出が結びついたものなど、視覚芸術上の数多くの実験が行われている。

三井グループ館の構想

動くパビリオン、コンバイン、道線モンタージュ理論−建築としての形からの発想でなく、パビリオンが外部的にも内部的にも動的な演出を行うというのが山口勝弘、東孝光、一柳慧の中心構想、だった。と同時に観客をこの動的な演出にまきこんでしまうために、入口から出口にいたるまでを、連続的な演出によって構成する。この考えが道線モンタージュ理論である。そして全体の構想をまとめていくのに各部分や各担当分野相互の間に、調和のあるまとまりを求めるより、むしろ異質な要素の結合、つまりコラージュ的な発想を大切にしようということでコンバインという考えが採択された。

これら3つの基本的理論の結果として、われわれの作るパビリオン全体が、自己完結的な閉ざされた演出を観客に提供するのではなく、いつも動的で観客がおのおの用意された演出の各要素を、自由に自分の体験として選択できるような方向が目標とされた。つまりわれわれ作る側の三原則は、そのまま観客にとっての三原則となっている。観客の動く体験、体験の中にモンタージュされてゆく各演出内容、連続的な体験のコンバインといった考えに翻訳されるもので、これは静的な鑑賞ではなくハプニングやイヴェントのような動的な経験に通じる芸術との接触である。

●基本構想からトータル・シアターに向かって

このトータル・シアターという形式は、いわゆる環境芸術の、ひとつの本格的な上演の形式であり、すでに20世紀はじめから演劇、映画、音楽、舞踊などの各ジャンルの進歩的な芸術家たちの構想として、いくつかの試案が発表されてきた。しかし、本格的な実現のチャンスはブラッセルの万国博におけるコルビュジェ、クセナキス、ヴァレーズなどによるフィリップス館の場合がはじめてであった。

●演出装置

光映像の諸装置は、高さ11メートル、幅26メートルのスクリーンが3面、ドームを取り囲んでいる。さらに、前期の各ターン・テーブル上に、小型スクリーンが付属する。

プロジェクタ一関係では、映画の上映のために、16 ミリのプロジェクターが18台、ダイレクト・プロジェクション上映のための9 台の特殊投影装置、さらにストロボ・プロジェクター3台などが備えられている。

音響装置は1726個のスピーカーがドーム内各所に配置されている。天井の二重のリング上に配置された天井スピーカ一群、ドーム内壁に等間隔に配置された壁面スピーカー、500数個のスピーカーを壁体パネルに仕込んだ3ヶ所の群集スピーカ一、ドームの中央のボールにのっている4組のセンター・ポール・スピーカーなどがある。空間的に配置されたこれらのスピーカーからは10チャンネルのテープによる音響、コンピユータ・プログラムと音素材発生機によって生み出される音響が複雑な音像ディスプレイによって空間的に発生する。

映像そのものについては16ミリの映写機とダイレクト・プロジェクターによる多層マルチ・プロジェクションを実験している。すなわち映画とスライド・プロジェクションをコンバインし、それらを同時的に投影するのである。

映像は今日の世界をかたちづくっている、自然と人間のさまざまな営みの断片である。普通写真、特撮、さらにポジフィルムをネガにしたり、同じくポジをカラーモニターテレビに通して色ぶれをおこしたり、豊富なテクニックを用いている。それらのモンタージュもマルチプルの手法を最大限に生かして、左右上下に、速やかな転換方式を伴って、変化をつけている。その中には、たとえば、CM的な短いカットを3ないしは5秒間ほど同時に複数で見せることにより、同時体験のおもしろさをねらったこころみもある。音響と映像、観客の動きなど、これらすべての演出は、コンピュータの制御によって行われる。

こうした「トータル・シアター」の実現によって従来の音楽、オペラ、バレエ、ミュージカル、演劇、映画など、劇場という空間とそのための機能に基づいた芸術のコミュニケーションと体験の質とが、根本的に違った経験を観客に与えることが可能となる。一方、このパビリオンでは図面でもわかるように、入口から出口までの観客の体験の中で、とくに対話の散歩道と休息室である想い出の空間は、自分にかえるためのフィードバックを考えたサイバネティックスな演出になっている。

さてこのような巨大演出空間での体験とその実験は、その後私自身の兵庫県立近代美術館での「銀河庭園」展でのパフォーマンス、埼玉県立近代美術館でのマルチメディア型の「光と音によるエレクトロ・ソカロ」の演出、パリのユネスコホールで発表された「イメージ・シナプス」及びスイスのロカルノで発表された「メタボリズム・イン・ロカルノ」の光と音楽と映像演出や、最近では愛知県文化会館での「コラボアート・環」及び「縁」の総合演出などに生かされ、博覧会とは違う日常空間での新しい演出として生かされている。


山口勝弘(やまぐちかつひろ)
1951年日本大学法学部卒業。北代省三、武満徹らと「実験工房」を結成する。68年「第34回ヴェニス ビエンナーレ」に参加。72年ビデオによる芸術活動を目的とした「ビデオ広場」を結成。75年「第13回サンパウロ ビエンナーレ」にてビラーレス工業賞受賞。85年「第6 回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」黄金のレーザー賞受賞。93年「第14回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」ヨーロッパ委員会名誉賞およびロカルノ市グランプリ。95年東京都現代美術館エントランス・ロビーに「光と音のインスタレーション」、同じく中庭パティオに「音のインスタレーション」を制作する。96年新宿オペラシティのギャレリアに、20mにわたるパブリックアート「音の気配」を制作する。97年アーテック’97にメディアインスタレーション「トリアディックガーデン」を発表。98年東京都写真美術館の「電子時代の新たなる肖像展」へ「Flee St.lt Art Rope」を出品。同年、ICCギャラリーの「バベルの図書館展」にビデオ彫刻を出品する。同年、愛知県芸術文化センターにおいてパフォーマンス「コラボアート−縁−」の総合演出を行う。99年大阪市住まいの情報センターおよび台北市第2美術館入口ホールにマルチメディア型パブリックアートを制作するなど、造形から光、映像、音響まで幅広いメディアを駆使した環境デザインを行っている。
著書に「環境芸術家キースラー」「ロボットアヴァンギャルド」等がある。
現在、環境芸術家。(株)環境芸術メディアセンタ一代表。筑波大学名誉教授および神戸芸術工科大学名誉教授。

1996 「1953 年ライトアップ」展 「実験工房」

「1953 年ライトアップ」展図録より
目黒区美術館1996年

実験工房
山口勝弘

「実験工房」が、一つの集団として活動を始めてから、すでに45年を経ている。もしグループのメンバーが、工房へ向けて集まりだした時期を、前期として含めるならば1948年という時点からになる。つまり半世紀近い以前になる。
しかし今なお、「実験工房」とは何だったのか、どんな活動を行なっていたのかについて、明確な輸郭が摑めない。その集団としての活動期は、1958年頃をもって終りを迎えているが、各メンバーはその後、この工房の実体解明にかまけていたわけではない。むしろ「実験工房」のイデーは、その後の工房メンバーの仕事の中に引き継がれ、時には共同の仕事としてなお活動が続けられているのである。

ただ昨年は戦後50年という年に当り、また近年いろいろな戦後史の回顧が始まり、この正体不明の芸術活動の解明が求められてきた。
今度開かれる「1953年ライトアップ——新しい戦後美術像が見えてきた」展でもそうした機会を与えられて、実体解明を行なわなければならないのである。ところがこのサブタイトルにある戦後美術像というのが問題になってくるのである。すでに現在、歴史を語る場合このような戦後美術像とか、現代美術史という言葉を選ばざるを得ない。しかし美術という枠からこの工房を眺めてみると、その実体はぼやけてしまう。
この最も根本的な理由を解明しなければ、われわれの工房の実体も見えてこない。ということに実は私も最近になって気付いた。
その理由の一つは外部的なもの、つまり社会的なものであり、もう一つは内部的なもの、つまり工房自身にあったのである。ではまず外部的な理由を考えてみよう。先にも述べたように戦後50年経ってみると、日本の戦後美術史は、次第にある枠にはめられ、また何回となく語られることにより、内容的にも一つの物語となってきている。物語が形成されてゆくと、当然いくつかの常套語が生まれ、歴史の真実はある共通認識に集約されてゆく。こういう戦後日本美術史の形成過程の中で、美術という領域を限定する時、すでに「実験工房」の活動領域がそれ以外の領域へ拡がっていたことが災いとなっている。つまり、西欧やアメリカの戦後美術史を基準としてみると、「実験工房」と比較される「具体」グループの場合は、絵画を中心とした表現とパフォーマンスを中心としたニつの領域にほぼ限定され、それら二つとも戦後美術史形成の流域から外れていない。むしろ中心の流れに属し、しかも西欧やアメリカを中心に編成されてゆく美術史の中に織りこみ易い活動なのである。しかも日本の美術史家にとってもこうした評価は、日本の現代美術史のアイデンティティを提示する場合、容易に認めることができる点なのであった。
その例として1989年のパリのポンピドゥ・センターの「前衛芸術の日本 1910-1970」展や、1994 年の横浜美術館の「戦後日本の前衛美術展」でも「実験工房」の全貌に焦点を当てることができなかった。その理由は、むしろこの工房内部の中にあった。あるいは「実験工房」は美術史の対象として採り上げるべきではなかった。あるいは現代音楽史の対象として採り上げるべきではなかった。そうした限定された専門領成が形成されてしまった1990年代の見方では捉えるのが難しい活動内容であった。つまり一般の埋解を拒んできた最大の理由は「実験工房」自身の中にあったと思うのである。
その理由の解明に入る前に、一つだけ触れておきたいことがある。去る1991年に「第11回オマージュ瀧口修造 実験工房と瀧口修造」展が東京の佐谷画廊で開かれたのは、 1951年の工房結成以来初めての客観的な評価対象としての展覧会だったのである。しかもA4版130項を超えるカタログ出版は、ー画廊で出すべきものというより、第一級の美術館のなすべきものであった。この展覧会とカタログによる記録の整理によって、ようやく工房の活動内容が見えてきたのである。私自身、工房の美術活動の範囲についてまとめ、秋山邦晴は音楽活動の範囲をまとめた。
しかし、今回の展覧会に際しもう一度工房の活動を検討し、その内容を分祈してみると前回の「実験工房と瀧口修造」 カタログの中で、まだ解析が不充分であったことに気付いたのである。その点が、実は「実験工房」の正体不明な活動内容を解明する最大の鍵ではないかとさえ考え始めたのである。
「実験工房」の活動は、すでに述べたように、美術や音楽というアートの領域から逸脱し、むしろ多領域的な活動内容をもっていた。しかしもっと別の視点からみると、戦後日本の新しい文化形成期における社会的運動体だったのではないか。少なくとも専門化したアートの分野から絶えずはみだそうという遠心的なエネルギーが強力に働いていたのである。
このグループのもっていた加速する遠心力の働きを示唆していたのが、漉口修造であった。武満徹のいう精神のパトロン。
ではこの工房の特徴について、もう少し具体的な解析を加えてみよう。まずグループの形成過程は、1948年夏に開かれた「モダン・アート夏期講習会」主健日本アヴァンギャルド美術家クラブの終了後、約10名のメンバーが集まり、北代省三宅で会合をもつことになった。この中のメンバー7名は4カ月後、「七耀会」という展覧会を開き、工房のメンバーの北代、福島秀子、山口がそれぞれ抽象画を出品する。その翌年、音楽の方の核となる動きとして早稲田大学仏文科に在学中の秋山邦晴が、「現代音楽研究会」を組織し、やがて慶応大学医学部の湯浅譲二と知り合う。山口は1947年頃から、東京有楽町にアメリカの民間情報教育局が開設したCI&Eライブラリーに出入りし、新着の図書、雑誌を手にすると同時に、毎週間かれていたレコード・コンサートで新譜の現代音楽に親しみ、やがて解説を手伝っていた秋山の存夜を知る。こうして1950年にかけ美術の核と音楽の核が次第にエネルギーを増し、やがて武満徹、福島和夫、鈴木博義などと美術のメンバーとが会合をもつに至る。
こうした偶然と必然の分かちがたい働きの中で1950年代初めの時期、世界でも稀なインターメディアを目指したグループが形成されてゆくのである。
ところで、このような萌芽期にメンバーの交流にスパイスとなっていたのは、北代の専門分野であり、また彼の好奇心の強い対象であった理工学の知識であった。ビッグバンに始まる宇宙の生成から物理学とくに量子力学などの最新の知織であった。後に「実験工房」の活動が、当時の日本では珍しい科学技術的傾向から構成主義への近接があり、またミュージック・コンクレートや電子音楽に関心をもっていったのも、こうしたスパイスの働きがあったからであろう。
ところで、いま述べた背景それ自体も工房の性格に影響を及ぼしたと思われるが、何より最も特徴的なことは、すでに第1回の発表であるバレー「生きる悦び」が、スポンサーである読売新聞社の依頼によるものだという点である。またその後の工房内の共同制作の発表のほかにも、他分野のアーティストからの依頼や、他分野のプロデューサーから持ちかけられた企画に協力してゆく。工房メンバーに限定された発表ではなく、そのつど、いろいろなチーム構成で仕事をしているところが非常に珍しいのである。つまり「実験工房」というグループに属してはいるが、固定したメンバーだけで活動していたわけではないのである。また発表の対象も展覧会や演奏会のほかに、ステージを対象とした異なった分野の人たちも加わった総合的な発表の方が、むしろ多かったのである。
「実験工房」といいながら物理的な工房のない、いわばバーチャルな工房によるアーティスト群であり、また非常に流動的な仕事の展開が行われていたのである。別の言葉で言えば、早くからプロジェクト・チームのような態勢で仕事を行ってきたのが実体であろう。さらにこうした活動の方向を積極的に推進していたのが瀧口修造のその当時の思想であった。また瀧口修造と同じぐらいこの工房に期待していた岡本太郎も同様な考えをことあるごとに書いてくれたのである。既成の価値観を認めず、日本人的なムラ社会化する美術や音楽の分野にはない新鮮さが、当時の工房が行っていた活動スタイルであり、その特異性が社会的評価となっていたのである。
「実験工房」の第一回発表会で、当時のメンバーのほとんどが、こうした総合的なワークショップの方法を手探りで始めたのである。
ピカソ祭の「生きる悦び」では、振付師 兼 ダンサーとして益田隆、バレリーは谷桃子を迎えている。このバレエ公演は、直接的には読売新聞社からの依頼という形をとっているが、工房形成期である1950年に、すでに北代と今井は横山はるひバレエ団の「失楽園」の舞台美術を抽象的な造形で行ない、51年にも同じバレエ団の「河童」などで舞台美術と照明を行なっている。なおこの二つのバレエの音楽では芥川也寸志と黛敏郎が作曲している。こうした背景の中で1951年メンバーの会合の中で、展覧会の企画がもち上がっている。しかもこの展示会が、作品を並べる形式のものではなく、会場そのものを造形的形態とする方法や、バレエの装置の展示や、作品を音楽と結びつけたり、さらに展示に照明を結びつけ機械的機構による動的効果を与える方法などが考えられていた。
また独自のバレエ上演についても討議され「美女と野獣」がテーマとして挙げられていた。こうした雰囲気と着火寸前のエネルギーがたまっていたグループにピカソ祭のバレエ上演のチャンスが巡ってきたのである。したがって1952年の実験工房第2回発表会以来、現代音楽の演奏会場に造形的オブジェや照明による演出が加わったのは、上記の工房が目指していたインターメディア的方法論の実践であった・
またこのインターメディア的思考は、言い換えればインターアーティスト的な考えにも通じるものであった。したがって他の分野の様々なアーティストとのプロジェクトチームによる発表方法がとられたし、第2回発表会のプログラムを見れば分かるとおり、オリビエ・メシアンをはじめコープランドやバルトークなどの海外作曲家の初演を行っている。また公演のパンフレット、チラシ、切符などはすべて工房のデザインである。
工房の発表方法は演奏会のほかに第4回読売アンデパンダン展への工房の共同制作によるレリーフ作品の発表があり、工房の第3回発表会は造形部門を中心とした発表である。この場合も発表会という名称をとっていることに注目したい。同年8月の第4回発表会で、初めてサティやメシアンと並んで工房メンバーの武満、湯浅、鈴木の新作が発表されている。
1953年になると工房の企画ではないが「アサヒグラフ」のコラム・ページ「APN」のカット写真構成が始まり北代、山口、駒井及び写真撮影で大辻が加わる。ここでも斉藤義重、勅使河原蒼風、長谷川三郎、浜田浜雄などが加わり交流が起こっている。またその頃、大辻は阿部展也、瀧口修造を顧問とする「グラフィック集団」に属し写真を中心としたグラフィック・アートのグループに入っている。このグループは後に浜田、北代なども入り石元泰博もメンバーになっていたこともある。したがって工房はこの集団とも親しく交流していた。
またこの年には第5回発表会が開かれ「アサヒグラフ」編集長・伊沢紀の紹介によりスライド投影機と音をシンクロさせた「オートスライド・プロジェクター」を開発した東京通信工業(後のSONY)と関係をもち、この装置を生かした映像音響作品の制作にメンバー全員が参加した。この映像への関心はすでに工房の中で映画の実験への関心が高まっており、小西六などとカラーフィルムによる撮影の可能性を探っていた。また後に実現した映画「モビールとヴィトリーヌ」の試作もこの頃からスタートしていたのである。
この第5回発表会は作曲グループの発表のほかに、秋山による「テープレコーダーのための詩」と次の4本のオートスライド作品が作られた。

「水泡は創られる」構成:領島秀子/音楽:福島和夫
「レスピューグ」構成:駒井哲郎/音楽:湯浅譲二
「試験飛行家W.Sの眼の冒険」構成:山口勝弘/音楽:鈴木博義
「見知らぬ世界の話」構成:北代省三/音楽:鈴木博義、湯浅譲二

1954年には実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が行なわれ、「月に憑かれたピエロ」のほか全曲が日本初演であった。
1955年には松尾明美バレエ団と工房の共同発表が行なわれ、「イルミナシオン」、「乞食王子」、「未来のイヴ」のそれぞれを山口、福島、北代が装置・衣装をデザインしているが、作曲の方は芥川、黛、武満といった具合に工房以外の作曲も入っている。この年には工房の核エネルギーは様々な社会的展開の機会をえて拡がってゆく。
関西で実験的な歌舞伎の演出を行っていた武智鉄二は工房の活動に注目し、シェーンベルグ「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「稜の鼓」への協力を依頼する。また日劇ミュージックホールからは、岡田恵吉演出の「神の国から谷底を見れば」というボードビルの舞台に映像、造形、音楽による協力を依頼される。これはおそらく戦後わが国の舞台デザインで本格的な映画とスライドによる映像の演出として、初めてのことであり、ことに3面マルチによる上映は1970年の大阪万国博の頃になって試みられるようになったものだった。
一方新理研映画が「日本自転車工業会」から制作を依頼されていたPR映画「銀輪」は、演出助手の松本俊夫の発想でもっと実験的な映画の試みが考えられ、「実験工房」に協力を求めてきた。
この映画は今までのPR映画の常識を破るもので、自転車の夢をみる少年の幻想を抽象とシュルレアリスムの手法を探り入れながら描いたものとなった。同時に技術的実験としては東宝の特撮監督の円谷英二の協力を仰ぎ、カラーによる特撮としては日本初の映画となったものである。
その他、音楽の方では工房メンバーの作況かはそれぞれ独自の作品を発表すると同時に、様々なインターメディア的発表に協力し未知の新しい分野を開いていった。「実験工房」の活動が知られてくると、工房は当時の日本における革新的な運動体とみられるようになり、やがては1956年の「ミュージック・コンクレート・電子音楽オーディション」のように新しい実験のプロデュースを行うことになる。この時は主催「実験工房」であり、岡本太郎の「現代芸術研究所」、NHKなどが後援という形をとっている。また発表者は黛敏郎、諸井誠、柴田南雄、芥川也寸志、武満徹、鈴木博義(「試験飛行家W.S氏の眼の冒険」山口勝弘の音楽)などが集まり、会場の客席には、山口によるロープを用いた放射状の空間構成で環境をつくった。
こうした幅広い活動を通して実験を重ねたことが、工房メンバーのその後のアーティストとしての精神の核となったことは間違いない。常に時代の方向を見据えながら新しい科学技術をもっている可能性を摂取し、その技術を人間化し、新しいセンセイションを表そうとしていた。しかし同時に日本の伝統的な芸術表現の核とその文化的本質を捉え、それらをそれぞれの作品の中に醸しだす努力を忘れていなかった。
拡がってゆく工房の方向を、時には仲間の一人として時には第三者として注視し続けていたのが瀧口修造という存在であった。時には厳しい批判を述べ、しかしながら切り捨てることなく、更に無限の可能性が開かれている先を見透そうとしていたのが瀧口修造であった。なぜこれほどまでに瀧口修造が実験精神ということにこだわり、そこから生まれたものを、より多くの公衆との共有を目指したのかといえば、まさに瀧口本人が1950年代に未来の芸術を、こういう姿のものとして思い描いていたからに他ならない。
瀧口修造は常に実践者であり、しかもユートピアンであった。「実験工房」はただの一度も大仰な宣伝文を発表していない。むしろ様々な実践の中から人々に伝わっていくものを信じていた。それだからこそ形のない工房として精神の実験を続けることができたのであろう。
なお「実験工房」の成立期に瀧口によって書かれた多くの文章には、「実験工房」の活動の方向性とその可能性について述べられたものが少なくない。例えば「実験工房第二回発表会」プログラムには「実験の精神について」という文章が寄せられ「これから世界の芸術と呼吸を通じ合うためには、もっともっと、つよい思想をもたねばなりません。それには私は何よりも実験精神を養うことが必要だと思います」と述べ、実験といっても実験室だけの現象ではなく、社会や現実にふれることの必要性を強調している。また1952年の「美術批評」5月号には「芸術と実験」という論文により、科学と芸術における実験の意味の違いを述べると同時に、今日の写真や映画やラジオやテレビなどの機械を通した芸術表現の登場期にも、多くの芸術家が開拓期に実験を重ねていることを述べている。また「芸術はより大きな公衆をもつことは望ましいが、今日の時代で新しい芸術は実験期を必要とする。それを飛び越えて大きな公衆と結びつこうとするころに商業主義的なジェスチェアが生まれる。モダン・アートが軽薄なモダニズムと混合されるのは、主にこういう場面であると考えられる。しかし真の公衆が最後に芸術に求めるものは、おそらくこういうジェスチェアではあるまい」と書かれている。

2000 「ジャンルの横断—実験工房」

「万歳七唱 ~岡本太郎の鬼子たち~」展
講座『アヴァンギャルドの冒険』第3回 1996年5月27日(土)

「ジャンルの横断—実験工房」
山口勝弘

表現分野を自由に横断しながら、その都度のプロジェクトと発表の内容に従って必要なメンバーがチームを作り計画を立て実現化する。実験工房の活動が時に明確なスタイルとして見えない理由は、このような活動方法を継続していたからである。
1951年から1957年まで18のプロジェクトによって実験工房としての活動が行なわれている。

実験工房の成立前1948年頃からの各メンバーの出会いから流動的な発表活動と研究活動の始まりを含めると約9年間になるがこの間の記録を調査すると岡本太郎との濃密な関係は、瀧口修造や粛藤義重との関係と交差しながら工房へ大きな影響を及ぼしている。

工房活動の性格を作り上げている思想的星雲のなかで重要な要素として芸術の社会的な場への積極的な関与あるいはメディア的な思考を含め次のような問題を中心にとり上げてみたい。

(1)絵画制作に関するメディア的思考

1950年代初めにカオス的状況にあったアヴァンギャルド運動のなかで、北代と山口によって思考されていた絵画作品の複数制作についての提案

①1950 年8 月12 日の北代による造画術の発表
絵画における複製とその意義について述べているがその中でキャンパス若しくはパネル上に筆によって描かれる工芸的手法をとっている。一方観賞方法は展覧会に展示されるかコレクターに所有されて限定された人びとにしか見られるチャンスがない。それに対して文学作品の出版、音楽作品の演奏とレコード化などより多くの機会を通して社会の中に流通しうる。とくに映画の場合はより大きな影響力を及ぼすことができる。
新しい版画としての印刷術と絵画制作方法の革新について「造画術」という工学的技術の導入を図る。

② 1950年 10月 21 日(山口日記より)
オブジェに当てられた光線により作られた影がそれ自身一つの絵画的空間として独立し、オブジェに仕掛られたメカニズムによって従来の絵画が表現しなかった運動を2次元上の空間にみせる試みの可能性。それは2次元空間と3次元空間の透入を図り、3次元空間のオブジェと2次元空間の運動する影をそれぞれ独自の存在として価値づける。 将来の壁面装飾の活用の道がある。

③ 1950年 12月 21 日(山口日記より)
北代氏の考える版画論より現実的な絵画複製論の提案。
作曲家の作品を色々な解釈で演奏家が表現するように作者自身が複製を行うのみならず、 製作者が寸法を変えたり材質感を変えたりモチーフのアレンジを行っても可能なリペインテッド(再絵画)の権利を保証する画作権を法律的に認める。
従来の絵画作品は創作者としての芸術家と製作者としての芸術家がl人に専属していた。 一品性のものであり過ぎたためヴァレリーカ時嘆に似た言葉で述べていたように最も古い型の労働者である画家の経済的自立のために、同じ絵を何回でも描けるような技術の改良
(他人により 10枚20枚の複製可能な描き方の)を提案している。※

(2)造形制作及び作曲活動における技術的可能性の実験が試みられる

①ピカソ祭「生きる悦び」このバレエ上演に際し上演中に特殊効果の部分があり秋山の詩(音声)とメトロノームの音のテープ上の合成が行なわれ、音響と造形作品と色光照明の効果が総合された。

②「実験工房第 5回発表会」における「オートスライド作品 J及び「テープレコーダーのための交響詩」の上演
スライド投影装置とデープレコーダーによる映像と音響の上演プログラムの同期を図る装置が東京通信工業(現 SONY)で開発されその装置によるマルチメディア作品の制作の依頼を受ける。一方秋山はテープレコーダーに録音される詩と音楽のテーフ上ての加工手法に基つく音響詩を提案した。すでに第1回発表の時からミュージックコンクレートの可能性と新しい櫛駒導入に積極句だった工房はマルチメディア型のソフト制作を行った。

③「バレエ実験劇場」
松尾明美バレエ団と実験工房のコラボレーションで行なわれ作曲に芥川也寸志と武満が参加。

④「神の固から谷底みれば」
日劇ミュージックホールと実験工房のコラボレーションが行なわれヴィトリーヌによる舞台装置と、スライド2面 映画l面の3面スクリーンによるマルチプロジェクションが行なわれる。

⑤「円形劇場形式による創作劇の夕」
演出家武智鉄二と実験工房のコラボレーションが行なわれ、シェーンべルグの「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「綾の鼓」の上演に協力し、とくに能や狂言のデザインを尖鋭化した北代と福島の舞台デザインと仮面や衣装が特色を生んだ。

⑥映画「銀輪」
新理研映画と実験工房のコラボレーションによる制作で、松本俊夫と円谷英二の協力によりシュールレアリスム風及と抽象映像のため特撮の映画デザインに工夫を重ねると共にフィルムの特殊処理を実験する。

⑦「ミュージック・コンクレート/電子音楽オーディション」
現代芸術研究所との共催により黛敏郎、柴田南雄、芥川也寸志などの参加による新しい時代の音響世界のデモンストレーションを行なう。

(3)この頃新しい音響についての理論的条件について考えていたこと

「オートメーションによる作曲」北代省三美術批評1956年1月号
ここで考えられている作曲は、コンピュータ・ミュージックの基本的原理を述べているもので、音楽表現にまつわる従来のいわく言い難い神秘性や、演奏家のクセなとについて新しい技術観の導入によって失なわれるものの是非を問うているのではない。ミュージック・ コンクレートや電子音楽の可能性を拓くための基本的条件を述へている。こうした北代の理論をもとに作曲家グループをはじめとする工房メンバーは討論を重ねていたのである。

(4)山口勝弘による「ヴィトリーヌ」(瀧口修造命名)の新しい空間造形 としての展開の可能性とその実践について

瀧口修造は次のように述べている。「一種の空間の音楽として鑑賞すればよいので、新しい建築の新しい装飾として推奨したいと思う。」
「海外の国際見本市の展示あたりに生かしたら面白いと思う。」
「現代のこうした芸術と建築を結ぶ機会ほど暖かな希望を抱かせてくれるものは、私にはありません。」
1954年以来3回にわたる銀座和光ギャラリーでの展示計画に第l回高村英也、第2回清家清、第 3回丹下健三により展示方法やデザイン計画に協力をえている。 またそれと平行して看板デザインやインテリアなと、への応用デザインも試みられている。

※これらの構想から約l年後、山口は「ヴィトリーヌ」という新しい表現手段の実験的制作を始める。その作品の構造からみて後に瀧口修造は「絵画とオブジの両棲類」と述べている。また山口は1953年「ヴィトリーヌ」の構造について「実用新案権」(No.1061) を取得している。

1991 La Invención de Morel

モレルの発明

「ハイテクアート 1991」展
1991年8月1日(木)より8月12日(月)まで
松屋銀座8階大催物場

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この作品の発想は、アルゼンチンの小説家で、ボルへスの親友そして共同執筆者でもあったアドルフォ・ビォイ・カサーレスの小説「モレルの発明」から得ている。カサーレスはその本の中で、不思議な映像記録装置を登場させている。知らぬ間に記録された現実が、いまの現実を先取りしているかのように、人間の意識を変えてゆく。最近話題の「反想現実」にも係わるようなテーマである。このカサーレスの世界と、数年来制作のコンセプトにしている建築とビデオイメージの関係を結びつけたのが、この作品である。使用される映像は匿名の兵士たちや民衆の姿であり、用意されたビデオカメラが観客の姿をそれらに重ね合わせてゆく。

La Invención de Morel – I got the idea for this piece from a novel by Adolfo Bioy Casares, an Argentine novelist who was a friend and collaborator of Borges’. The book is about a mysterious visual recording device whose images strangely anticipate reality and alter the consciousness of the characters. It is a theme that touches on the current concept of “virtual reality.” This work connects the world of Casares with the architectural and video images that I’ve been working on for the past few years.
A camera films visitors to the exhibition and then superimposes their features on images of anonymous soldiers and civilians.

(from “The Document Video of Video Installation and Video Sculpture by Katsuhiro Yamaguchi”)

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28インチ モニターTM-28 12台
S-VHS ビデオテープレコーダー 6台
小型モノクロカメラ(ズーム付)1台
スイッチャー(カメラの映像とVTR映像を重ねる)1台
オーディオアンプ 1台
スピーカー 2台

アクリルパイプ

12 Monitor Televisions (TM-28, 28inches)
1 Video Camera (B&W with zoom)
6 Video Tape Recorders
1 Video Switcher (camera images + video tapes images)
1 Audio Amp
2 Audio Speakers
Mirrors
Acrylic Pipes
Water
Wood

3180 × 4000 × 2270 mm

1991-ビデオ彫刻「モレルの発明」の解剖学資料

1991-Invencion_de_Morel-松屋ハイテクアート図面等書類

1991-Invencion_de_Morel-松屋ハイテクアート展フライヤー

1991-Invencion_de_Morel-松屋ハイテクアート展チケット

 

1993 Image Synapse

1993 “Image Synapse” with Opera  (Kakiage Nahoko, Sagara Nami),  Metropolis Aborigines Report Event, Sumida Riverside Hall, Tokyo. LED installation by Moriwaki Hiroyuki, direction by Yamaguchi Katsuhiro.

「イメージ・シナプス」、ユニット「オペラ」(書上奈朋子、相良奈美)、墨田リバーサイドホール、東京。LED装置:森脇裕之、監修:山口勝弘。

“Opera” participated in the European tour “Metropolis Aborigines” (November 1992, organized by Christophe Charles and Sakai Shinichi). The tour was following the “Media Opera” on Awaji Island (October 1992). The Opera Sumida Riverside concert was held in Spring 1993 as one of the “report events” of the “Metropolis Aborigines Tour”.

Opera and Yamaguchi Katsuhiro would participate in the “Japan Culture Festival” at Paris UNESCO Hall, as part of the “Tokyo Experimental Art Ensemble” concert in May 1993. Yamaguchi Katsuhiro and Opera then joined forces to prepare the UNESCO concert, and their collaboration culminated in the 14th International Video Art Festival of Locarno (Switzerland) where they were awarded the “Conseil de l’Europe Prize for the contribution to Video Art” and “Grand prix de la ville de Locarno” for the piece they renamed “Metabolism in Locarno” after “Image Synapse”.

 

2002 Imaginarium

2002年4月6日(土)~6月23日(日)
「美術館の夢」展、兵庫県立美術館
“The Dream of a Museum”, Hyogo Prefectural Museum of Art, Kobe.

Hyogo Prefectural Museum of Art Website

山口勝弘《イマジナリウム》

“(2)…〈イマジナリウム〉は、わが国に伝わる連句、連歌のような集団的な芸術形式を、その先駆的な例としてあげることができる。”

“(3)〈イマジナリウム〉のもう一つ大きな展開は、人工衛星によるコミュニケーション・システムを利用する点にある。この計画は、一つは地方にある〈イマジナリウム〉の間を、衛星による通信システムにより結びつけることである。これは、中央集中的な芸術や文化活動によって生まれる文化的な階層性を排除し、ローカルな芸術や文化の特質を大切にするためにも必要な手段である。
また、都市計画や建築物などを対象とした情報交換や、大きな彫刻や造形物の展示にともなう莫大な輸送経費を考えた場合、サテライトによる芸術情報のネットワークは、将来ますます重要な役割を果たすことになるだろう。こういう時代的な要請に答えるため、現在地球上の軌道を廻っている通信衛星を利用するには、いろいろな制約が多すぎる。そこで、すでに気象衛星や、軍事衛星のように単一の目的に利用される衛星があるのだから、芸術の目的に利用される「芸術衛星」を打ち上げる必要があるというのが私の考えである。「芸術衛星」を打ち上げる費用は、世界中の美術館や、美術関係者が賛同すれば調達可能な金額ではないか。”

“〈イマジナリウム〉のネットワークが機能的に活動すると、こうした遺跡のなかで、ビデオ・プロジェクションや、レーザー・ショーや、大ホログラフィーなどを利用し、さらに音楽や舞踏を含めた、大イヴェントを開くことができる。”

(『作品集 山口勝弘360°』 六耀社 1981年より:本展図録p.198に再録)