2000 ’70年万博再考 – 総合的な演出空間の創造

シリーズ’70年万博再考
総合的な演出空間の創造
山口勝弘 環境芸術家

概要

1960年代の芸術は、時代の雰囲気を吸いながら芸術作品という対象の制作から次第に離脱してゆくのである。環境芸術という言葉がすでにそういう兆候を示しているのである。すなわちいままでの芸術はそれぞれの表現分野の枠の中で、ある定められた形式によって、求心的な存在となっていたのである。美術でいえば、それは絵画という表現であり彫刻という表現であった。つまり作品は近代を通してこういう形成の中で存在し、また受容されていたのである。しかし環境という条件の中で作品という存在を考えた場合、形式によって枠づけられた条件は、環境という周囲をとりまく条件によって相対的なものとならざるを得ない。もっとはっきり言えば、作品を規定していた分野の境界が不分明となり、場合によっては作品という求心的存在が融解し、環境そのものになってしまうことすら考えることを許してしまう。造形芸術のとるべき姿にあった素材感や形態感が失われてゆくのである。そして作品の素材や形態の中に機械的なイメージが導入され、キネティックな運動感が加えられても、まだ作品という形式は最終的に存続していたのである。しかし人工的な光が作品の素材にとって変わり、その光が周囲の環境の中に拡がってゆくと共に、作品は形態の枠によって規定されなくなっていった。1960年代の造形作品はキネティックアートとライトアートの二つの方向から環境性を強く意識させたのである。

このことは、1960年代を特徴づける三つの展覧会のタイトルの中に十分読みとることができる。「色彩と空間」 展(1966年 南画廊)、「空聞から環境へ」展(1966年 松屋)、「現代の空間’68<光と環境>」 展に共通しているのは、空間を色彩とか光によって環境化していくという方向である。もちろんそれぞれの展覧会に出品された作品の内容を見ると単純にはくくれないが、とにかくタイトルの中には、こうした新しい造形のリテラシーが求められていたことは事実である。

1966年には日本でも1970年の大阪万国博への参加を目的としたグループが結成され、展覧会とイベントが開催された。「空間から環境へ」というタイトルが示しているように、作品展示を行うと同時に観客のために新しい人工的環境を提案することを狙っていた。

またこのグループのメンバーには、建築家、グラフィックデザイナー、インダストリアルデザイナ一、画家、彫刻家、造形作家、映像作家、音楽家などが含まれている。

そして直接博覧会を目指してはいないが、アメリカでも芸術家とエンジニアの協力によるインターメディアを目的としたグループ「E.A.T.」 が結成され、ここでも電子技術、音響技術、映像技術と芸術が協力し、さらに舞踊家が参加したいわゆる大空間でのパフォーマンスが行われた。

また万博に参加した外国パビリオンでも、アメリカ館、コカコーラ館、ドイツ館、フランス館、スイス館、カナダ館などでは前衛的なアーティストやデザイナーが協力していた。こうした状況の中で、マスメディアは各パビリオンの入場者数の集計をテレビの視聴率のように発表した。この結果、前衛的な芸術家の実験的手法と大衆性が、必ずしも一致しない結果となり、アート&テクノロジーの時代的潮流は1970年以降一時退潮してゆく、しかし1970年代に入るとビデオアートとコンピュータグラフィックスがExpo’70の映像メディアをさらに尖鋭な方向へ進めてゆく。

1960年代の時代的動向

電子工学技術は、最初に宇宙ロケットの制御システムに利用され、同時にシステム・エンジニアリングの手法によって閉鎖型プロジェクトの実施に応用された。これに対し、芸術家たちが用いる技術システムは、即興性とアナログ性の高い人間のパフォーマンスに結びついて用いられた。したがっていわゆる「人間=機械系」といっても、まったく異なった発想を出発点としていたのである。

「E.A.T.」の活動は、ベル・テレフォン研究所の技術者ビリー・クリューバーを中心に、ラウシェンバーグや、ロバート・ホイットマン、ジョン・ケージ、アレックス・へイ、デビィッド・テュードアなど美術、音楽、舞踊など多領域からの参加者によって行われた。

その中でも、1966年に、ニューヨークの旧兵器廠(有名なアーモリー・ショーの聞かれた建物)で、「演劇とエンジニアリングの九夜」というイヴェントがひらかれ、これが芸術と技術の新しい結びつきを示す大きな出来事となった。ここで新しいというのは、閉回路テレビ系や、シンセサイザーを組み込んだ音楽の演奏を含めて、メディア指向の強い演出が行われた点である。また演奏者と観客との間の区別を取り払い、いわゆる観客参加の上演形式が目立った。

この観客参加という形式は、1950年代末からアラン・カプローによって始められたハプニングの延長線上にあり、ハプニングがよりインター・メディア化し、また電子工学の新しい技術と結びついたものが、この「E.A.T.」のパフォーマンスの特徴となっていった。

すでに「E.A.T.」のパフォーマンスが、これらの装置をメディアとして利用していたように、音楽の分野では1960年代に入ると電子音楽の実験が始められていた。西独のケルン放送局の電子音楽スタジオは、そうした活動に関心を持つ音楽家のメッカであった。

やがてフランス、アメリカ、日本などでも電子音楽スタジオの実験活動が始まる。美術の分野でもコンピュータにプログラムされた図形を、XYプロッターで紙面上に描き出す方法が考えられ「コンピュータ・グラフィックス」が実現する。さらに、これらの図形を連続的に変化させ、一本のフィルム上に記録させるコンピュータ・フィルムの実験が始まる。アメリカのスタン・ヴァンダーピーク、ジョン・ホイットニーはコンピュータ・フィルムの先駆者である。とくにスタン・ヴァンダーピークは、自分の家に小型の半球ドームを建て、そこにマルチプロジェクション装置を置き、映画の環境的展示に興味をもっていた。

ではなぜ前衛的な芸術家たちが動員されたのかといえば、おそらく次の二つの理由からだろう。

一つの理由は、この万国博では直接的な商品展示が禁じられていたことである。したがって芸術的な展示によるパビリオン間の競争が起こった。

二つ日の理由は、1番目の理由とも関係するのだが、わが国の工業技術社会のハードウェアは、ほぼ世界水準に達した。そこでそれらのテクノロジーの利用技術、つまりソフトウェアの開発に対する産業界の期待があった。

時あたかも、ミニスカートとビートルズの時代、つまり大衆文化の中にファッション現象の新しい展開が始まっていた。この大衆文化社会の新しいエポックを可能にしたのは、情報とそれらを伝達する新しいメディアの力に負っている。
1970年の万国博は、ある意味で情報化社会への導入的役割を果たしたのである。ここでいう情報化社会というのは、情報に対する社会的関心が高くなり、情報そのものに対する価値評価が高くなってゆく社会を示している。1960年代の半ばからコンピュータの導入が、社会の各分野で本格化するとともに、コンピュータ・アート、つまりコンピュータによる芸術が生まれている。しかし、コンピュータ・アートも、むしろ70年代に入って着実な展開をとげる。

ところで万国博の芸術的成果を考えると、一つはモニュメンタルな建築技術上の実験が行われたことだろう。富士パビリオンの空気構造による巨大建築物、パイプによる世界最大の構造体となったお祭り広場の大屋根、また各国パビリオンを含めて、事務所的建築物ではなく表現的な建築物について、世間の関心を集めたことも一つの成果となった。とくにパビリオン内部の演出的空間構成の場で、造形家たちの技術が利用されたのである。

この万国博が一種の映像博といわれたように、マルチ・プロジェクションの手法が開発され、太陽の塔内部の粟津潔のプロデュースによる「マンダラマ」、東芝IHI館の泉真也のプロデュースによる「グローバル・ビジョン」、富士グループ館のマルチ・プロジェクション、せんい館の松本俊夫による「アコ」、三井グループ館の山口勝弘による「スペース・レヴュー」などがあった。その他「E.A.T.」のグループと中谷芙蓉二子によるぺプシ館の演出は、惜しくも企業側の意見により会期半ばで中止されてしまった。また鉄鋼館では、武満徹の音楽と宇佐美圭司のレーザ一光線の演出が結びついたものなど、視覚芸術上の数多くの実験が行われている。

三井グループ館の構想

動くパビリオン、コンバイン、道線モンタージュ理論−建築としての形からの発想でなく、パビリオンが外部的にも内部的にも動的な演出を行うというのが山口勝弘、東孝光、一柳慧の中心構想、だった。と同時に観客をこの動的な演出にまきこんでしまうために、入口から出口にいたるまでを、連続的な演出によって構成する。この考えが道線モンタージュ理論である。そして全体の構想をまとめていくのに各部分や各担当分野相互の間に、調和のあるまとまりを求めるより、むしろ異質な要素の結合、つまりコラージュ的な発想を大切にしようということでコンバインという考えが採択された。

これら3つの基本的理論の結果として、われわれの作るパビリオン全体が、自己完結的な閉ざされた演出を観客に提供するのではなく、いつも動的で観客がおのおの用意された演出の各要素を、自由に自分の体験として選択できるような方向が目標とされた。つまりわれわれ作る側の三原則は、そのまま観客にとっての三原則となっている。観客の動く体験、体験の中にモンタージュされてゆく各演出内容、連続的な体験のコンバインといった考えに翻訳されるもので、これは静的な鑑賞ではなくハプニングやイヴェントのような動的な経験に通じる芸術との接触である。

●基本構想からトータル・シアターに向かって

このトータル・シアターという形式は、いわゆる環境芸術の、ひとつの本格的な上演の形式であり、すでに20世紀はじめから演劇、映画、音楽、舞踊などの各ジャンルの進歩的な芸術家たちの構想として、いくつかの試案が発表されてきた。しかし、本格的な実現のチャンスはブラッセルの万国博におけるコルビュジェ、クセナキス、ヴァレーズなどによるフィリップス館の場合がはじめてであった。

●演出装置

光映像の諸装置は、高さ11メートル、幅26メートルのスクリーンが3面、ドームを取り囲んでいる。さらに、前期の各ターン・テーブル上に、小型スクリーンが付属する。

プロジェクタ一関係では、映画の上映のために、16 ミリのプロジェクターが18台、ダイレクト・プロジェクション上映のための9 台の特殊投影装置、さらにストロボ・プロジェクター3台などが備えられている。

音響装置は1726個のスピーカーがドーム内各所に配置されている。天井の二重のリング上に配置された天井スピーカ一群、ドーム内壁に等間隔に配置された壁面スピーカー、500数個のスピーカーを壁体パネルに仕込んだ3ヶ所の群集スピーカ一、ドームの中央のボールにのっている4組のセンター・ポール・スピーカーなどがある。空間的に配置されたこれらのスピーカーからは10チャンネルのテープによる音響、コンピユータ・プログラムと音素材発生機によって生み出される音響が複雑な音像ディスプレイによって空間的に発生する。

映像そのものについては16ミリの映写機とダイレクト・プロジェクターによる多層マルチ・プロジェクションを実験している。すなわち映画とスライド・プロジェクションをコンバインし、それらを同時的に投影するのである。

映像は今日の世界をかたちづくっている、自然と人間のさまざまな営みの断片である。普通写真、特撮、さらにポジフィルムをネガにしたり、同じくポジをカラーモニターテレビに通して色ぶれをおこしたり、豊富なテクニックを用いている。それらのモンタージュもマルチプルの手法を最大限に生かして、左右上下に、速やかな転換方式を伴って、変化をつけている。その中には、たとえば、CM的な短いカットを3ないしは5秒間ほど同時に複数で見せることにより、同時体験のおもしろさをねらったこころみもある。音響と映像、観客の動きなど、これらすべての演出は、コンピュータの制御によって行われる。

こうした「トータル・シアター」の実現によって従来の音楽、オペラ、バレエ、ミュージカル、演劇、映画など、劇場という空間とそのための機能に基づいた芸術のコミュニケーションと体験の質とが、根本的に違った経験を観客に与えることが可能となる。一方、このパビリオンでは図面でもわかるように、入口から出口までの観客の体験の中で、とくに対話の散歩道と休息室である想い出の空間は、自分にかえるためのフィードバックを考えたサイバネティックスな演出になっている。

さてこのような巨大演出空間での体験とその実験は、その後私自身の兵庫県立近代美術館での「銀河庭園」展でのパフォーマンス、埼玉県立近代美術館でのマルチメディア型の「光と音によるエレクトロ・ソカロ」の演出、パリのユネスコホールで発表された「イメージ・シナプス」及びスイスのロカルノで発表された「メタボリズム・イン・ロカルノ」の光と音楽と映像演出や、最近では愛知県文化会館での「コラボアート・環」及び「縁」の総合演出などに生かされ、博覧会とは違う日常空間での新しい演出として生かされている。


山口勝弘(やまぐちかつひろ)
1951年日本大学法学部卒業。北代省三、武満徹らと「実験工房」を結成する。68年「第34回ヴェニス ビエンナーレ」に参加。72年ビデオによる芸術活動を目的とした「ビデオ広場」を結成。75年「第13回サンパウロ ビエンナーレ」にてビラーレス工業賞受賞。85年「第6 回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」黄金のレーザー賞受賞。93年「第14回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」ヨーロッパ委員会名誉賞およびロカルノ市グランプリ。95年東京都現代美術館エントランス・ロビーに「光と音のインスタレーション」、同じく中庭パティオに「音のインスタレーション」を制作する。96年新宿オペラシティのギャレリアに、20mにわたるパブリックアート「音の気配」を制作する。97年アーテック’97にメディアインスタレーション「トリアディックガーデン」を発表。98年東京都写真美術館の「電子時代の新たなる肖像展」へ「Flee St.lt Art Rope」を出品。同年、ICCギャラリーの「バベルの図書館展」にビデオ彫刻を出品する。同年、愛知県芸術文化センターにおいてパフォーマンス「コラボアート−縁−」の総合演出を行う。99年大阪市住まいの情報センターおよび台北市第2美術館入口ホールにマルチメディア型パブリックアートを制作するなど、造形から光、映像、音響まで幅広いメディアを駆使した環境デザインを行っている。
著書に「環境芸術家キースラー」「ロボットアヴァンギャルド」等がある。
現在、環境芸術家。(株)環境芸術メディアセンタ一代表。筑波大学名誉教授および神戸芸術工科大学名誉教授。

1970 Expo’70 大阪万国博覧会

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大阪万博 三井グループ館 1970年

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三井グループ館 模型 1970年

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大阪万博 三井グループ館の前の山口勝弘 1970年

1970年大阪に於てアジアで初めての〈万国博覧会〉が行なわれた。3月14日から9月13日までの半年で、64.218.770人もの人々がそこを訪れた。この観客動員数は大変なものである。しかし、残念ながら、この万博は、その後の現代美術の発展に余り影響を与えるまでには力が及ばなかったと思われる。西嶋憲生は、「日本政府が、過多のビデオ実験に補助金を出したにもかかわらず、明日の無い実験であった」とまで発言している(西嶋憲生「Histoire de la vidéo au Japon」、『Vidéo』、Artext(e)s、p.92)。〈万博〉は既に世界中で行なわれ、各国の芸術家を招き、大々的な計画への参加を依頼することも数多くあった。〈大阪万博〉の場合、日本においては前代未聞の、並外れた資金が投じられ、多数の前衛芸術家が動員された。山口勝弘の要約によると、その理由は二つある。「1つの理由は、大阪万博では、直接的な商品展示が禁じられたことである。従って25、芸術的な展示によるパビリオン間の競争が起こった。2つ目の理由は、第1の理由とも関係するのだが、わが国の工業技術社会のハードウエア面は、ほぼ世界的水準に達し、そこで、それらのテクノロジーの利用技術、つまり、ソフトウエアの開発に対する産業界の期待があった」(山口勝弘『ロボットアヴァンギャルド』、p.58)。

その意味で、〈大阪万博〉は、60年代に明らかになり始めた傾向を結集したと言える。また、情報社会への道をも示した。そして、当時、科学や社会の様々な分野にコンピュータが普及し、大幅に利用されたことによって、コンピュータ・アートが生まれたと言うこともできる。そのような企画に参加したメンバーには、アーティストのみならず、建築家も多かった。ジョン・ケージ、ロバート・ラウシェンバーグとデーヴィド・チュドアによる〈EAT〉グループのインターメディア的な方法論の影響で、「モニュメント的な建築技術上の実験」が行なわれ、事務所的建築物より、表現的な建築物を作るという傾向が現われた。山口勝弘が言及しているように、〈大阪万博〉は「一種の映像博」であった(『ロボットアヴァンギャルド』、p.59)。〈太陽の塔〉内部の粟津潔による《マンダラマ》、東芝IHI館では泉真也による《グローバル・ヴィジョン》、またせんい館の松本俊夫による《スペース・プロジェクション・アコ》、などもあった。鉄鋼館では武満徹の音楽と、宇佐見圭司のレーザー光線のスペクタクルが発表されていた。

山口勝弘は建築家、東隆光と伊原道夫と共に三井グループ館のディレクションを担当した。全体のプロジェクトは《スペース・レヴュー》と名付けられ、館内の空間、つまりそこで行われるスペクタクルによって、館の建築は構成された。「三井パビリオンでは、建築自体とその内部でおこなわれる催しや展示を分けて考えず、その両面を一体化して、一貫した演出方針に沿って展開される連続した環境の集合体としてとらえられている。その結果、ここには建築の要素がすべての環境を成立させるための道具・装置である〈装置化建築〉が出現した」。

ドームの中に行われたスペクタクルは《宇宙と創造の旅》と名付けられ、その主な仕掛けは観客が昇る事ができる三つの回転する台であった。それぞれの台には80人までが乗ることが出来、上下に10メートルから20メートルの高さで移動することが出来た(山口勝弘「せり上げ回転式展望装置」、『山口勝弘 360º』、p.122)。360度のスクリーンや天井に設置された彫刻に、フィルム上映機やストロボによって、中島興の映像や光の投影が行われた。一柳慧、佐藤圭次郎と奥山重之介が創造した音楽が、スクリーンの裏や地面に設置された何百台のスピーカーから聞こえていた。出口は長い廊下に配置され、その壁に小さなスピーカーが取付けられており、詩などを朗読する声が聞こえ、この廊下部分の音量はドームの中それとは対照的に小さな音量であった。

映像実験が多過ぎたため、観客の中にも、「テクノロジック・アート」に対しての否定的な反応は多かった。又、山口勝弘によれば、「万国博の会場に現われた50.000.000近い人間群の影響が前衛的な芸術家達の上にも起こってきていた。どちらかと言えば、個人的な発表でしかなかったこれらの芸術作品が、半年間の間に、50.000.000近い人間達の眼に晒されるという経験は、彼らにとって初めてのことだった。さらに、仲間内に近い学芸欄や文化欄でなく、社会面で作品の評価を問われることも初めての経験となった。また、私を含めて、何人かの芸術家達は、この会場が大量の観客に対する一方的コミュニケーションの場とならざるを得なかったことに、深い反省を抱いた」(『ロボットアヴァンギャルド』、p.60)。

1970年は、 社会的、政治的な出来事が多発し、それによって「情報社会」の曙となり、同時に芸術家の役割についても考えさせられた時代であった。芸術家たちは、コミュニケーションの新しい可能性に適応した利用法、また政府及び企業に対しての対応を新たな定義付けを余儀なくされた。したがって数年前に出版されたマーシャル・マクルーハンの理論(マーシャル・マクルハン『The Gutenberg Galaxy』、トロント、トロント大学出版、1962年)の研究を再認識する必要性があった。「この新しいメディア論の特徴は、マスメディアを前提としたものではなく、むしろメディアを利用する情報の作29り手が、パーソナルになり、コミュニティーとなり、今までのマスメディアの受けて側の論理から出発している点である。」(『ロボットアヴァンギャルド』、p.61)

これらの記述からも分かるように、日本ビデオ・アートの歴史に関心を持つ人々にとって、〈大阪万博〉は意味を見いだすことができないイベントであった。しかしながら、1970年は、政治社会的出来事が多く、また情報社会の黎明期でもあったので、芸術家の役割について多くの基本的反省がなされたことは、特筆に値するであろう。「万国博そのものの成果はとにかくとして、その後の数年間に、これら環境演出の手法は一つのノウハウとして、社会的に定着していったのである。」(『ロボットアヴァンギャルド』、p.60)

(クリストフ・シャルル「日本の映像芸術」筑波大学博士論文、1996年)

L’Expo 70 à Ôsaka

Si l’Expo 70 fut la première manifestation à attirer tant de monde en Asie (64.218.770 visiteurs, du 14 mars au 13 septembre), il semble qu’elle n’ait pas, si l’on en croit les principaux intéressés, modifié outre mesure la situation de l’art contemporain japonais. Nishijima Norio [西嶋憲生] écrira même : “L’État japonais subventionna une pléthore d’expériences vidéo, qui restèrent sans lendemain” (Nishijima Norio, La vidéo au Japon, in Vidéo, René Payant éditeur, Montréal, Artextes, 1986, p. 92.). Les moyens mis à la disposition des artistes furent pourtant énormes, et sans précédent au Japon. Ce fait tient à deux raisons, qu’analyse ici Yamaguchi :

“En premier lieu, l’interdiction d’exposer des objets à caractère commercial, suscita une sorte de surenchère artistique entre les différents pavillons. La seconde raison est liée à la première : au sein de la société techno-industrielle, le Japon avait atteint un niveau très élevé sur le plan de la fabrication. Le monde attendait donc beaucoup de l’exploitation de ses technologies dans l’ordre conceptuel”.

L’Expo 70 fut en ce sens le catalyseur d’un ensemble de tendances, qui avaient commencé à s’affirmer pendant les années soixante. Elle permit ainsi le passage vers une société d’information : c’est bien à cette époque que naît l’art informatique (computer art), à mesure que se multiplient les utilisations de l’ordinateur, dans bien des domaines, économiques ou scientifiques.

L’Exposition universelle ne fut pas seulement ouverte aux artistes : les architectes procédèrent à toutes sortes d’expériences sur le plan de l’architecture monumentale, avec l’intention de construire des bâtiments non plus seulement fonctionnels, mais “expressifs”. Ils invitèrent aussi bien des plasticiens que des musiciens. C’était là une des tendances caractéristiques des années soixante. Elle s’affirmait dans les théories “intermédiatiques” du groupe EAT (Experiments in Art and Technology), qui comptait en particulier parmi ses membres fondateurs John Cage, Robert Rauschenberg et David Tudor. Sans doute est-ce dans cette ligne qu’Isozaki Arata [磯崎新] élaborera ses “réflexions sur les monuments invisibles”, à partir d’une théorie de l’espace d’information en tant qu’espace de fête :

“Des représentations qui accumulaient technologies électroniques et techniques d’images eurent lieu sous de forme de happenings contrôlés par ordinateur”. Le fait est qu’il y eut beaucoup d’expériences liées aux images : Mandarama [マンダラマ] d’Awazu Kiyoshi [粟津潔] à l’intérieur de la Taiyô no tô [太陽の塔] (Tour du soleil), Global Vision [グローバル・ヴィジョン] d’Izumi Shinya [泉真也] au pavillon Tôshiba [東芝IHI館], Space Projection Ako [スペース・プロジェクション・アコ] de Matsumoto Toshio au bâtiment Sen’i [せんい館]. Sur la musique de Takemitsu Tôru, Usami Keiji [宇佐見圭司] présenta son spectacle de lasers au pavillon de la sidérurgie Tekkô-kan [鉄鋼館].

Yamaguchi Katsuhiro quant à lui dirigea la construction du bâtiment du groupe Mitsui [三井グループ館], avec l’aide des architectes Azuma Takamitsu [東隆光] et Ihara Michio [伊原道夫]. Originellement intitulé “Sôzô no rakuen”, le projet fut baptisé “Space Revue” [スペース・レヴュー]. La structure globale du bâtiment fut conçue en fonction de son espace intérieur, c’est-à-dire des différents dispositifs requis pour le spectacle multimédia qui devait y prendre place. L’architecture était donc devenue “un outil ou dispositif, dont chacun des éléments avaient pour fonction de créer un environnement (…) propre à développer le principe d’une mise en scène cohérente”.

Le spectacle principal qui eut lieu à l’intérieur du dôme fut intitulé Uchû to sôzô no tabi [宇宙と創造の旅] (Voyage dans le cosmos et la création), et la principale attraction en fut le système des trois plateaux tournants et ascensionnels, sur lesquels le public était invité à monter pendant environ quinze minutes. Ces plateaux s’élevaient de 10 à 20 mètres au dessus du niveau du sol, et supportaient 80 personnes chacun. Le spectacle était composé de projections d’images et de lumières sur un écran de 360º et sur des sculptures installées au plafond, à l’aide de douze projecteurs 16 mm (voir Yamaguchi Katsuhiro, Seriage kaitenshiki tenbôsôchi [せり上げ回転式展望装置] Un système panoramique ascendant à rotation, in “Yamaguchi Katsuhiro 360º”, op.cit., p. 122).

Le projet définissait une relation mouvante entre les spectateurs et la scène ou les écrans, et invitaient à rentrer dans les images de manière abstraite. Le programme sonore d’Ichiyanagi Toshi, Satô Keijirô [佐藤圭次郎] et Okuyama Jûnosuke [奥山重之助], parcourait un système électro-acoustique composé de centaines de haut-parleurs disposés sur les parois du bâtiment, derrière l’écran géant ou près du sol, tout autour des installations mécaniques. Leur contrôle était assuré par un ordinateur qui mettait en marche les projecteurs et les sources sonores, et définissait les différents circuits d’utilisation des canaux selon des séquences préétablies. La sortie s’effectuait par un long couloir bardé de hauts-parleurs de petite taille, qui faisaient entendre des voix murmurant des poèmes, en très fort contraste avec le feu d’artifice de sons et de lumières de l’intérieur du dôme.

Yamaguchi note cependant que cette débauche d’expériences visuelles provoqua dans le public des réactions négatives vis-à-vis de ces démonstrations d’”art technologique” un peu trop expérimental : “L’influence des cinquante millions de visiteurs s’est répercutée sur les artistes d’avant-garde. Autant dire que c’était la première fois que leurs œuvres, qui n’étaient que des “témoignages” personnels, allaient être exposées pendant six mois, et vues par près de cinquante millions de personnes. On pouvait, pour la première fois, lire des comptes rendus dans la grande presse et dans les rubriques “société”, hors des colonnes artistiques ou culturelles des journaux proches des artistes. En outre, cette exposition ne fut qu’un lieu de communication à sens unique pour un grand nombre de visiteurs, et provoqua une profonde réflexion chez les artistes, y compris moi-même” (Robotto Avangyarudo, op. cit., p.60).

Il semble cependant que cette année 1970, riche en événements sociaux et politiques, ait plutôt suscité des réflexions de fond sur le rôle des artistes, à l’aube de cette nouvelle “société d’information”. Il leur fallait reconsidérer leur position vis-à-vis du gouvernement et des entreprises, et préciser une méthode pour utiliser convenablement les nouvelles possibilités de la communication. Les thèses de Marshall McLuhan, publiées quelques années auparavant (The Gutenberg Galaxy est parue en 1962, aux presses de l’Université de Toronto), méritaient d’être étudiées plus sérieusement. Il leur fallait aussi parvenir à de nouvelles formulations théoriques.

“La caractéristique de cette nouvelle théorie des médias est de se détacher de la logique de celui qui reçoit l’information, en vigueur jusqu’alors. Elle ne prend pas les mass médias comme préalable, il s’agit plutôt pour celui qui émet l’information et qui utilise les médias, de devenir soit individu, soit communauté”. Ainsi l’Expo 70 avait-elle permis aux artistes du Japon de reconsidérer leurs conceptions de l’art. Car celui-ci avait désormais acquis une dimension nouvelle dans ses rapports avec la communication et les mass-médias : “Ces techniques de mise en scène de l’environnement devaient constituer un savoir-faire pour les années à venir” (Robotto Avangyarudo, op. cit., p.60).

(Christophe Charles, “Les arts de l’image au Japon”, Doctorat INALCO, 1997)

三井グループ館 内面空間記録映像
Images de l’intérieur du Pavillon Mitsui Group
(『公式長編記録映画 日本万国博』より、2:19:30 ~ 2:20:00)

『公式長編記録映画 日本万国博』Full version: https://www.youtube.com/watch?v=L9qyEuY_wk8

山口勝弘「二つの文化と環境への志向」、美術手帖、1970年7月増刊号

山口勝弘「’70万博再考」、まちなみ9月号、2000年
テキストバージョン

YURIKO FURUHATA: “Multimedia Environments and Security Operations: Expo ’70 as a Laboratory of Governance”, Greyroom, MIT Press, Winter 2014, No. 54, Pages 56-79

1978 CAYC

1978 CAYC Japan Video Art Festival Catalog

1978-CAYC-Japan_Video_Art_Festival_ページ_01

1978-CAYC-Japan_Video_Art_Festival_ページ_26

An Open Spirit

In the last five years, the Center of Art and Communication
(CAYC) has organized ten lnternational Open
Encounters on Video, according to the following list: I, at
the Institute of Contemporary Art, London, 1973; II,
Espace Cardin, Paris, 1974; Ill, Palazzo del Diamanti,
Ferrara, Italy, 1974; IV, CAYC, Buenos Aires, 1975; V,
lnternatlonaal Cultureet Centrum, Antwerp, Belgium, 1976;
VI, Museum of Contemporary Art, Caracas, 1977; VII,
Joan Miró Foundation, Barcelona, Spain, 1977; VIII,
Continental Gallery, Lima. 1977; IX, Alvar and Carmen
Carrillo Gil Museum, Mexico City, 1977; and X, which will
be held next May at the Sogetsu-Kaikan Building, Tokyo.
As their title indicates, these encounters are open, in
order to encompass all tendencies and authors, an
attitude demanded by video art itself. We believe that the
best explanation of the need for this spirit, and of the
scope of the medium, was formulated In February 1977,
during the Barcelona Encounter, by Katsuhiro
Yamaguchi, one of the most important creators of
Japanese video art and one of the 33 participants in CAYC’s
Japan Video Art Festival.
Yamaguchi said at that time:
“Some two hundred years ago a kind of open poetry
contents were held in Japan, with the purpose of having
a physical space turn into a communication of living art.
The coordinator initiated the encounter by pointing out
the essence of a theme, which was selected from among
the events of the corresponding season; for instance, the
first snow of winter, the light of summer, the sound of the
wind on a door.
“Not many people took part in those encounters.
Approximately thirty people gathered in a room and, over
the span of three hours, each one of them prepared
several poems, the sum of which, some two or three
hundred, formed a chain of the imagination and, later,
turned into a popular tradition or legend.
“Two centuries ago we did not have television or video
recorders, for which reason paper and brush were used.
Today we have the necessary means for an imaginary
presentation in real time: video art is the most useful of
those media. Through the years, the imagination of
mankind was captured by the artists, and ended in the
art objects. But, now, technology allows us to project
outside our mind the inner process of imagination.
“Video art makes this reconquest of the imagination
possible. It is within the reach of everybody. With it, the
poetry encounters of two hundred years can and must be reborn.”

(CAYC 1978 catalog, p. 3)