1999 山口勝弘作成文書リスト(1988~1999)

1999.7.23
山口勝弘NEC文豪による作成文章リスト1988-1999 pdf

(No. – 文書名 – 字数)

1988

01 映像を中心とした AV環境の創造の実例 960
02 映像表現の複数性 1680
03 ビデオ・インスタレーションについて 2880
04 映像展示の今後について(表) 1840
05 Arch – Column – Zampini 詩 3210
06 世界デザイン博・アーテック’89 とメイテック・シンボルの意味 1760
07 メイテック電子枯山水基本構想 3800
08 映像新時代を考える 3400
09 太陽を撃つ 2107

1989

01 TOTOショールームビデオ彫刻について 1240

1990

01 造形芸術と Interactivity 3880
02 淡路島芸術村構想 ARTPIA AWAJI 2280
03 淡路島芸術村構想について 1400
04 淡路島芸術村構想の具体的展開 3720
05 The New Trend of Art and Technology 出版企画書 2600
06 アールジュニ活動年譜 1680
07 淡路島芸術村の推進 2360
08 アールジュニ活動歴資料 17640
09 実体からメディアへ(表) 7040
10 ハイパーメディアトラック機材リスト 4440
11 芸術とメディアテクノロジー・センター 2880
12 Water Frontierとしての文化・芸術系 2360

1991

01 芸術専門学群・教育体系の再検討について 2760
02 実験工房年譜 19600
03 ハイパーメディア・ヴァン トラッキングリスト 2920
04 アートリゾート時代の淡路島芸術村構想 6320
05 淡路島芸術村の推進 2360
06 環境造形研究所 1160
07 ひょうご情報通信回廊・テレワーク実験 1880
08 ユビュの詩 960
09 ひょうご情報通信回廊・テレワーク実験スケジュール
10 芸術と発想 1080
11 芸術村基本施設案 1360
12 フランスの芸術村 1120
13 淡路芸術村計画 1520
14 テレワーク実験シナリオ 6160
15 兵庫テレワーク実験と淡路島芸術村計画 1440

1992

01 テレワーク・アンケート用原稿 4440
02 美術工芸品用 Wax 実験 2160
03 あなたがデザインする場合 3160
04 Wax Object 制作の秘法 400
05 山口勝弘展ヴィトリーヌ解説(和英文) 1000
06 「もうひとつの山口勝弘展」出品資料 4680
07 山口勝弘展英文・邦文記載リスト 10920
08 第1回世界環境芸術会議計画案 2840
09 芸術村運営計画 1520
10 もうひとつの山口勝弘展あいさつ文 640
1 1 エレクトロ茶室 2320
12 東京都現代美術館に関する事項 3280
13 酒会社CM用原稿 1160
14 メディアオペラ「国生みの未来」1200
15 バベルに関する書籍リスト 4400
16 メディア時代のシンセシス(アイゼンバイス原稿) 1760
17 Imaginarium after Babel 7520
18 中国、国際環境科技芸術展のための中国環境芸術委員会 1800
20 淡路島芸術村の推進 12月14日 2880
21 淡路島芸術構想について12月14日 1400
22 淡路島芸術村計画12月14日 1240
23 ’93 中国国際科技芸術展企画書 2400
24 卒業生へのメッセージ(神戸芸術工科大学) 560
25 第2回世界環境芸術会議(案) 3120

1993

01 山口映像学原稿(アレクサンダー・ドルナー)10920
02 映像文化史 1992年度後期 1040
03 芸術村を励ましていただいた思い出(故 TDK大歳会長)1000
04 第2回世界環境芸術会議(案)3120
05 UBUマニフェスト 1440
06 催し物の提案 (Sony 8F ホールの件) 2440
07「Cの関係」について 3400
08 「空間の認識」1160
09 日経新関連載記事「空間の奇想曲」全連載記事 5600
10 時代の求める知と感性を磨く場ヘ 640
11 「メディア協奏曲」について 4480
12 美術館と映像 – Monetと Kuntzelを巡って 9760
13 川辺町将来計画案 1360
14 第 2回世界環境芸術会議の討議内容 3680
15 第 2回世界環境芸術会議/記者会見用資料 11120
16 環境映像と都市空間(ダイアグラム) 3000
17 情報都市と文化装置(ダイアグラム) 1760
18 環境芸術メディアセンター 1360
19 すべての芸術はメディア化の中で生き始めている 3000
20 イマジナリウムの系譜 1040
21 「山口勝弘リフレクション展」プレス用資料 1560
22 Multi-Media in Art 2480
23 プレゼンテーションの方法 1680
24 東京国際フォーラム用企画書 10480
25 クンツェルに関する論文の要約 600
26 ビデオパサージ、ユの和英インストラクション 5360
27 シテ・デザール・オーベルヴィリエ 3240

1994

01 視覚情報デザイン概論 2480
02 人工生命とフランケンシュタイン神話(ヤッシャ・ライハート)1680
03 淡路島芸術村の経緯 6210
04 視覚情報デザイン概論「イメージ」760
05 視覚情報デザイン概論4 1480
06 北代省三展カタログ用原稿 4320
07 淡路島芸術村(フランス講演用) 3320
08 日本映像学会第 21回大会企画およびスケジ‘ュール 7720
09 サウンドスケープについて(ドイツ文化会館用パンフ)2000
10 建築から環境ヘ(ドイツ文化会館用) 6600
11 環境芸術メディアセンター施設構成図 3400
12 視覚情報デザイン学科プロジ‘ェクト「プレゼンテーションとは何か」2800
13 人間はデザインしながら生きている 12560

1995

01 淡路島山勝工場地震後の建物状態 1480
02 こんどは芸術活動 1760
03 映像工夫館について 2160
04 淡路ポストカード用コメント 560
05 1994年度卒業者コメント(神戸芸工大)520
06 ヴィトリーヌの温故知新(佐谷画廊個展パンフ) 1680
07 アーテック’95について「常に改革されるビエンナーレ」 1360
08 芸術工学分野の概略、基礎では何を学ぶか 1880
09 商工美術用「中部電力欄電気の科学館オームシアター」 1240
10 芸術工学概論「イメージを表す」(視覚情報デサイン) 1280
11 ダ二・カラヴァンのイメージ展開例 920
12 学科案内の発刊について(神戸芸工大) 1160
13 下山芸術の森パフォーマンス1995 840
14 下山芸術の森パフォーマンス台本 2880
15 芸術工学と視覚情報デザイン 2400
16 メディアは建築となりうるか。建築はメディアとなりうるか。 (仙台メディアテーク) 3440
17 ビデオインスタレーション作品集・ナレーション原稿 15200
18 ビデオパサージュ解説 640
19 ビデオインスタレーション作品集ナレーション原稿(英文) 20200
20 グラフイツク集団メンバー 640
21 実験工房とその周辺 7120
22 映画からメディアヘ 1280
23 Meisterklasse for Experimentale Visuelle Gestaltung 2600
24 「アートピクニック入門一現代美術の理解のために」 1960
25 淡路島芸術村の経緯(1997年版) 8200
26 ホログラフィーと展示環境 11000
27 練馬区美術館個展の方向について 1240
28 環境芸術原稿 1520
29 第4回WEAS開催案 1320
30 メディア時代の工房団地事業 3440
31 映像文化史年間スケジュール 720
32 映像学年間スケジュール 720
33 アートハイキンク 2680
34 湯崎扶佐子氏への祝辞 400
35 1950年モビールの季節 2240
36 ヴァーチャ lレ工房レジメ 76
37 アサヒグラフ APN写真リスト 720
38 観賞からメディアリテラシーへ 3210

1996

01 観賞からメディアリテラシーへ(英文) 7200
02 目黒区美術館原稿 7560
03 山口ホームページ用原稿 1(英文) 920
04 山口ホームページ用原稿 2(英文) 10040
05 影像から映像ヘ 1160
06 ホームページ掲載作品データ 3880
07 オートスライド作品とミュージックコンクレート(目黒区美術館用)1840
08 現代音楽年表(目黒区美術館用) 3120
09 アートのオリジナリティの行方(インターネットについて)2520
10 原美術館宮脇愛子展 2400
11 アドヴァンス・ビジュアルウェアとは何か 3560
12 光と音響によるデザイン 1800
13 視覚情報デザインの目指すもの 1840
14 メディア文化史 2160
15 三幅対の庭園 920
16 三幅対の庭園機材リスト 3840
17 東郷青児について 2320
18 卒業生という身分 760
19 TORAYのデジタルコンペ評 1080
20 フォーラム凹凸/ヴアーチャルミュージアム0号案 1320
21 全感覚をもって環境をとらえよ 1800
22 ハイパーメディアバンのアイデア 920
23 ハイパーメディアバンの機材リスト 4800
24 造形芸術とインタラクティヴィティ 3880
25  フォーラム凹凸/ヴァーチャルミュージアム構想 2840
26 「ガウディの幻想」 「ナイトメア」 「Hiroshima 」英文解説 3480
27 「音の気配」英文解説 2760
28 電話のトポス/アート、ネットワーク 960
29 第4回WEAS情報アートワークショップ 1280
30 布張彫刻、ヴィトリーヌ、油絵解説 1120
31 アートのオリジナリティの行方(長文版) 2640
32 映像文化史 マスメディアの巨人 1280
33 メディアマジシャン飯村に寄せて 600

1997

01 一宮町メディアセンター(仮称)の方向性 2640
02 第2回メディア文化史浮世絵 1680
03 第3回メディア文化史電話とネットワーク 3320
04 二次元上の線は行き場がない。 2000
05 メディア文化史印象派 5月8日 3360
06 淡路島メディアアートセンター 880
07 映画史 2960
08 第6回メディア文化史裸のメタモルフォーズ 2400
09「実験工房」による舞台デザインの復元 2840
10 コラボアート一環ーコメント 1640
11 A&E携帯電話操作マニュアル 1720
12 第9回メディア文化史映像と環境 1760
13 21世紀に向けてのシンボルとステージ案 3640
14 観客からA&Eヘのメッセージ(英文) 11000
15 メディア文化史ホログラフィーと展示環境 4120
16 メディア文化史ファッションとアート 1720
17 福島秀子さん追悼原稿 1600
18 観客からA&Eへのメッセージ 15400
19 三幅対の庭園(英文) 1400
20 メディア文化史年間プログラム 2480
21 情報都市と文化装置(改訂版) 1760
22 新しいテクノロジーによる作品と美術館 8520
23 コラボアート一環一「環境舞台の新しいコラボアート」 2600
24 女子美術大学身体メディア演出学科計画案 お40
25 美術と癒し 7640
26 エッセイ美術と癒し (IPA用) 1240
27 大学紀要実験工房舞台デザイン復元 2200
28 新しいテクノロジーによる作品と美術館(語尾を丁寧語に変換) 12920
29 コラボアート一環一 (英文) 1280
30 造形芸術とインタラクティヴィティ(改訂版) 5200
31 職人・芸術・建築大学ワークショップ「ナンセンス機械」 2440
32 モダニズム、第2次世界大戦、戦後 1280
33 職人・芸術・建築大学ワークショップ「ガウディ」 2160
34 第5回WEASインターネットデザインコンペ総評 3440
35 いざなぎ芸術メディアセンター 1480
36 人間はデザインしなが生きている 3520
37 職人・芸術・建築大学ワークショップ「現代芸術概論」 2960
38 職人・芸術・建築大学ワークショップ「実験工房」 560
39 総合食文化タウン川辺の町っくり計画 2720

1998

01 いざなぎの丘アートセミナー開催について 2640
02 ブ工ノスアイレス剛貼用レクチャー原稿 3680
03 Pertaing to Art & Technology from the 1960’s-1990’s 8120
04 映像工夫館について 2400
05 映像工夫館について(英文) 5480
06 Media Technology and the New Museum 11000
07 Media Technology and the New Museum (メモランダム版) 12040
08 コラボアート「縁」コメント 1960
09 メディアとアートの共生への検証(女子美機関誌用) 13760
10 ボルヘスとカサーレスの着想から(バベルの図書館) 2600
11 閉幕張研究所内 IBMギャラリー展示案 1560
12 山口公共ビデオ作品機材メンテナンス状況 1960
13 バベルの図書館レクチャー用原稿「モレルの発明の解剖学」 7160
14 職人・芸術・建築大学ワークショップ「キースラー 」 680
15 第8回いざなぎの丘アートセミナー「私の国際交流こと始め 」 1640
16 天六商店街モニュメント 1080
17 台北市第 2美術館公共空間造形、媒体、展示 3440
18 天六商店街オアシス計画 1320
19 メディア福笑データ 1520
20 A&E説明 480
21 榎本和子個展カタログ用原稿 3960
22 Art & Technology from 1960’s-1990’s台北講漬用レジメ(英文) 12040
23 1960年代 -1990年代日本のアートアンドテクノロジーの歴史 5160
24 コラボアートー縁ーレジメ 3920
2 5 From observation to media literacy 7600
26 台北市第二美術館一層公共空間基本計画 4040
27 第9回いざなぎの丘アートセミナー「ガーデ二ングの前に庭園文化を考えよう」 1560
28 Wave Length メモ 880
29 山口勝弘コードブック「イマジナリュウム 」 2000
30 錦絵新聞 2160
31 台北市立第二美術館用演出ソフト及び映像情報ソフト制作案 1320
33 GA原稿「アフオーダンスの日常化の 2つの実現」 3120
34 東京オペラシティーガレリア音環境基本計画(案)2000

1999

01 北海道専門学校レジメ 1880
02 夢遊桃源図コンセプト 200

1994 実験工房から淡路芸術村へ Metafort Symposium

“Artistic Creation, Technological Innovation, Social Experiment”,
First Metafort’s Symposium,
September 30th and October 1st 1994 in Aubervilliers, France.

「芸術的創造、技術的発明、社会的実験」
第一回メタフォール・シンポジウム、
1994年9月30日+10月1日、オーベルヴィリエ、フランス

実験工房から淡路芸術村へ
山口勝弘

私はいま日本列島の中の小さな島で新しい芸術活動の担点、を作ろうとしている白淡路島芸術村(Awaji Island Art Village)である。日本の古い神話である「古事記」 によれば、IZANAGI という男神とIZANAMI という女神が天の上から長い矛をもって海の水をかきまわして最初に作った島がこの淡路島である。

すべての神話がそうであるように、それは民族や部族が集団化してゆく過程でできた物語である。私の直感的なひらめきがこの島に芸術村を作ろうという構想を生みだしたが、その動機は古い時代の神話にあったわけではない。いま私たちは人類史上もっとも多くの出来事の凝縮された世紀の最後を迎えている。恐らくまだ神話という形にはなっていないかもしれないが、空と地上と海上を超高速で走りまわる人類と物質、そしてコンピュータ内部と人聞のもつコンビュータ・ネットワークの聞を超高速で走りまわる情報とが新しい集固化した地球上の人聞の意識を生みだしている時代なのだ。

その時代を迎えた時、地球上のどんな地点にも芸術活動の拠点、を作るととが可能になるはずである。パリやニューヨークや東京のような大都市の中だけが芸術の中心となる時代ではなくなるだろう。

私が数年前、淡路島を選んだもっとも大きな理由の一つは、島から高速艇で30分の距離に新しい国際空港の建設が始まっていたことと、20世紀末前にこの島が東洋一の橋によって本州と結ばれるととが決っていたからである。園内的にも国際的にも高速化する交流の場に組み込まれ、またコンピュータネットワークの進展は人口一万人の町でさえ世界の大都市と全く変わらない情報網によって生きるのである。

芸術活動は常に個人の才能やインスピレーションから生まれるものではなかった。時代を見越したあるアーテイストの先見的な視線が他のアーテイストの視線と交差し、アトリエは実験的な工房となり、新しい芸術の運動体となり社会的な場を形成していった。

ワイマール共和国のパウハウス(Bauhaus) も、その流れを受け継いだノースカロライナのブラック・マウンテン・カレッジ (Black Mountain College) も、日本の近世京都郊外の鷹ケ峯(Takagamine) に集まった尾形光淋(Korin Ogata)らの芸術村も、それらは新しい芸術運動の艶点であり才能あるアーテイストたちによる凝縮された集団が強烈な磁場を形成していた。

私にとってアーテイストとしての社会的活動の出発点となったのは1951 年に東京に結成されたグループ「実験工房」(Experimental Workshop)であった。これは詩人でシュルレアリスムの日本での最初の紹介者でありプルトン(Andre Breton)やデュシャン(Marcel Duchamp)と親突のあった瀧口修造(Shûzô Takiguchi)によって名づけられたグループであった。詩人、作曲家、照明デザイナー、写真家、画家、造形作家、そしてエンジニアが加わったインターメディアグループの誕生であり、最初の発表が戦後日本で閲かれたピカソ展を記念し、ピカソ(Pablo Picasso)の絵画「生きる悦び’」 (Joy of Life) をテーマとしたバレーの上演であった。

このグループ活動の特徴は実験工房という名前にもかかわらず具体的な工房を持たなかったことにある。戦後の日本で芸術家のための工房をもっととは殆ど不可能に近かったーしかしもっとも重要なととは芸術上の実験精神をメンバー全てが共有していたことであり、観念の工房を心の中に形成していたことであった。メンバーの交流は今も続き発表を共にすることもある。

私自身の芸術活動の核はつねに次の時代を目標とした活動の磁場を形成することにあった。1960年には「集団現代彫刻」 (Shûdan Contemporary Sculpture Group) という彫刻と環境の場を考えるグループを結成し、1960 年代を通して日本の現代彫刻が公共の空間に進出する道を開いた白1971 年には日本ではじめて「ビデオひろば」 (Video Plaza) というビデオアート活動の運動体をつくり、1981 年には「グループ・アール・ジュニ」 (Group Arts-Unis) を結成してエレクトロニクスアートの活動の母体をつくった。このグループはコンビュータアート、ホログラフイアート、キネティックアート(Kinetic Art)、ライトアート、コンピュータ・ミュージックなど独立した分野が形成されてゆく申で、それらの専門分野を横断的に結ぶのが目的であった。すでに1970 年代以降メディアと結びついたアートの分野の活動は即時的に全世界の活動と愛読が始まっていたため、日本の中の活動も地理的ハンディキャップを考える必要がなくなりつつあった。1989年からは「グループ・アール・ジュニ」 の活動の延長線上に名古屋市でARTEC ビエンナーレ(International Biennale in Nagoya-Artec)が始まりエレクトロニクス・アートの重要な発表の場が生まれた。

私自身アーテイストとしてアート・アンド・テクノロジーからエレクトロニクス・アートへと作品活動を展開してきたが、一方1977年よりこの分野での日本で最初の教育活動の場が筑波大学(University of Tsukuba)の中に総合造形コース(Plastic Arts and Mixed Media) という名称で設置され、私はととの教授となった。この大学の工房とビデオとホログラフィーの研究室はエレクトロニクス・アート時代のバウハウスの誕生であった。また「実験工房」時代から26 年後にできた具体的な実験工房であった。

それからすでに17年の時聞が流れ私は新しい形の精神共同体の申に生きている。今回オ一ベルヴィリエ市(Aubervilliers)にできるシテ・デ・ザール(La Cité des Arts) の最初の世界的プレゼンテーションの記念シンポジュームに招かれた今、ここに集まった私の友人を含む多くの方々と共に私の実験精神に新しい活力がそそぎとまれているのを感じる。淡路島芸術村について若干具体的な説明を述べてみたい。この島には漁業や農業を営む人たちが多く、島の環境には自然の景観が多く残っている。人聞は五感すべてを包んでくれる自然環境の中で脳の中でのパーセプションとインタラクティプな関係を持つことによって強い快適感を感じとる。このような自然を背景とした場の申で環境芸術やメディアによって結ばれた芸術活動の可能性を考えるための「濠境芸術メディアセンター」(Center of Environmental Art and Media -C.E.A.M.)を中心にアーテイスト・イン・レジデンスのための住居とアトリ工、更に作品の貯蔵庫と展示空間を用意する。

1994年中に具体的な全体計画を作り、1995年より道路の造成を行ない1996 年よりセンターの建設に入る予定である。

この芸術村の要の場所に1994年7月に私のArt Factory が完成をみたーとのArtFactory が先ず芸術村での活動の実験工房であり、研究所であり、また若い芸術系大学や若い学生のための私的教育空間としても機能させてゆくー淡路島に出来た委員会では、淡路島芸術村はあくまでも自然の中の村的雰囲気を大切にしながら発展させるべきで、巨大な建物や多数の運営経費によって白業自縛に陥る道はとるべきではないという意見の提案がでている。


De l’Atelier Expérimental au Centre des Média et Arts Environnementaux

Yamaguchi Katsuhiro

Je développe actuellement le projet du Geijutsu Mura (Village des arts) à Awajishima, une petite île de l’archipel nippon. Selon le Kojiki (la “Chronique des faits anciens” établie en 712), la déesse Izanami et le dieu Izanagi remuèrent les eaux marines depuis le ciel à l’aide d’une longue hallebarde, jusqu’à former la première terre de l’archipel, Awaji.

Comme la plupart des mythes, il s’agit d’un récit qui a pris forme grâce au processus de regroupement de différentes éthnies et tribus. La raison qui m’a poussé à former le projet d’un “village des arts” sur cette île n’est cependant pas l’existence de ce mythe. Nous approchons de la fin d’un siècle qui a connu, comparativement aux autres périodes de l’histoire humaine, un nombre considérable d’événements. Les plus marquants n’ont peut-être pas encore été retranscrits sous la forme de mythes, mais ils ont néanmoins donné naissance à une conscience collective nouvelle des hommes sur la terre, qui s’est notamment transformée en fonction des possibilités, sur terre comme sur mer, de déplacement ultra-rapide des hommes et des choses, et de circulation des informations au gré des réseaux informatiques.

À l’avènement d’une telle époque, nous devons être en mesure de construire des bases d’activités artistiques en n’importe quel point géographique du globe terrestre. Nous ne sommes en effet plus à l’âge où l’art ne se crée que dans les métropoles telles que Paris, New-York ou Tôkyô.

L’une des raisons principales pour laquelle j’ai choisi il y a quelques années l’île d’Awaji, est que celle-ci se trouve à trente minutes par bateau rapide du nouvel aéroport international du Kansai, et qu’elle se trouvera reliée avant la fin de ce siècle à l’île principale de Honshû par un pont colossal. Elle est ainsi en passe de devenir un lieu d’échanges à haute vitesse, à l’échelle nationale comme internationale : l’évolution des réseaux électroniques lui permettra de développer un environnement informatique qui n’aura rien à envier à celui des grandes villes.

La création artistique n’est pas toujours déterminée par le génie ou l’inspiration d’individus isolés : lorsque que la clairvoyance d’un artiste qui a su prévoir l’évolution d’une époque s’est confronté au regard d’autres artistes, que son atelier s’est transformé en un laboratoire où ont pu avoir lieu de multiples expériences et est ainsi devenu le support d’un mouvement artistique, celui-ci a ainsi créé un lieu social.

Le Bauhaus de la République de Weimar, le Black Moutain College créé en Caroline du Nord aux États-Unis, ou encore le village des arts qu’Ogata Kôrin fonda à Takagamine dans la banlieue de Kyôto, furent chacun des foyers d’activités artistiques sans précédent qui devinrent, grâce aux quelques artistes talentueux qui les établirent, des lieux d’un magnétisme puissant.

En tant qu’artiste, mes activités publiques débutèrent avec la création du groupe Jikken Kôbô (Atelier Expérimental) en 1951. Son nom fut choisi par le poète Takiguchi Shûzô, proche d’André Breton et de Marcel Duchamp, qui introduisit au Japon le surréalisme. Le groupe intermédia qui naquit alors rassemblait poètes, compositeurs, créateurs d’éclairages, photographes, peintres, plasticiens et ingénieurs. Notre première œuvre collective fut la réalisation d’un ballet sur le thème du tableau de Picasso “La joie de vivre”, lors de l’exposition rétrospective du peintre qui eut lieu au lendemain de la guerre.

Bien qu’il fut intitulé “Atelier Expérimental”, la caractéristique des activités de ce groupe fut de se développer sans utiliser de lieu particulier. Dans le Japon de l’après guerre, il était en effet quasiment impossible de posséder un atelier destiné à la création artistique. La condition qui a véritablement présidé la création du groupe fut l’esprit d’expérimentation artistique commun à chacun de ses membres. La communication entre ces artistes s’est poursuivie, et leurs œuvres continuent d’être présentées aujourd’hui.

Le noyau de mes activités fut toujours orienté vers la création de lieux “magnétiques” destinés aux générations futures. En 1960, je formai le groupe Shûdan Gendai Chôkoku (Groupe Sculpture Contemporaine), qui proposait une réfléxion sur les lieux possibles de création de la sculpture et de l’environnement. Celui-ci ouvrit alors une voie vers les espaces publics à la sculpture japonaise contemporaine. En 1971, je fondai le Video Hiroba (Video Plaza) avec un groupe d’artistes qui pratiquaient l’art vidéo, et en 1981, le groupe Âru-Juni (Arts-Unis), qui devint un véhicule d’activités pour les arts électroniques. Alors qu’il se composait d’artistes venus de domaines artistiques autonomes : infographie, holographie, art cinétique, création d’éclairages ou musique par ordinateur, son but fut d’envisager un lien transversal entre ces territoires spécialisés. À partir des années soixante-dix, la création artistique liée aux média commençait à opérer des échanges simultanés avec le monde entier, et il fut de moins en moins pertinent d’envisager la situation géographique du Japon comme un handicap. En 1989, dans le prolongement des activités du groupe Arts-Unis, fut créée la Biennale Internationale de Nagoya (ARTEC), et celle-ci devint un des lieux privilégiés de présentation des arts électroniques au Japon.

En tant qu’artiste, j’ai moi-même développé des œuvres depuis les domaines de “l’art et la technologie” jusqu’à ceux des “arts électroniques”, et ai fondé en 1977 la section Sogô-zôkei (Arts plastiques et média mixtes) à l’université de Tsukuba. Cette section est devenue le premier lieu d’activités pédagogiques dans ce domaine au Japon, et j’y ai enseigné jusqu’en 1993. Les ateliers et les laboratoires de vidéo et d’holographie de cette université ont ainsi donné naissance à un “Bauhaus” de l’époque électronique : vingt-six ans après la fondation du Jikken Kôbô, ce sont devenus de véritables “ateliers expérimentaux”.

Mais dix-sept années se sont déjà écoulées depuis la fondation de ce département, et je vis à présent dans un contexte spirituel collectif différent. J’ai été invité à participer au symposium de célébration de la première présentation mondiale de la Cité des Arts d’Aubervilliers, et, de même sans doute que les personnes qui y sont présentes, je sens une énergie nouvelle pénétrer mon esprit avide d’expériences. J’aimerais présenter ici les activités du Village des Arts de l’île d’Awaji. Les habitants de cette île exercent principalement la pêche et l’agriculture, et les paysages naturels y sont encore très nombreux. Dans un tel environnement où les cinq sens se trouvent ainsi enveloppés, l’homme ressent un sentiment de bien-être car il peut y entretenir des relations interactives sur le plan de la perception. Il s’agit d’un projet d’”artistes en résidence” qui prévoit des habitations, des ateliers, ainsi que des entrepôts et des espaces d’exposition pour les œuvres : le Kankyô Geijutsu Media Center/C.E.A.M. (Centre des Média et Arts Environnementaux) propose de réfléchir aux possibilités de création artistique liée à l’environnement et aux média, dans un espace entouré de paysages naturels.

Avant la fin 1994 sera proposé le plan concret de l’ensemble du projet. En 1995, les voies d’accès seront construites, et la construction du centre débutera dès 1996.

Mon atelier, le Yamakatsu Kôjô, a été achevé en juillet 1994. Il s’agit de l’”Art Factory”, l’”atelier expérimental” du village des arts, qui aura également fonction de centre de recherche et de centre pédagogique pour les jeunes universités d’arts et les jeunes artistes. Le comité exécutif de l’île d’Awaji tient à développer le projet du Geijutsu mura sans tomber dans le piège des frais excessifs d’administration et de construction de grands bâtiments, en préservant son atmosphère de village à l’intérieur d’un environnement naturel exceptionnel.

(Traduction : Christophe Charles)

1996 「1953 年ライトアップ」展 「実験工房」

「1953 年ライトアップ」展図録より
目黒区美術館1996年

実験工房
山口勝弘

「実験工房」が、一つの集団として活動を始めてから、すでに45年を経ている。もしグループのメンバーが、工房へ向けて集まりだした時期を、前期として含めるならば1948年という時点からになる。つまり半世紀近い以前になる。
しかし今なお、「実験工房」とは何だったのか、どんな活動を行なっていたのかについて、明確な輸郭が摑めない。その集団としての活動期は、1958年頃をもって終りを迎えているが、各メンバーはその後、この工房の実体解明にかまけていたわけではない。むしろ「実験工房」のイデーは、その後の工房メンバーの仕事の中に引き継がれ、時には共同の仕事としてなお活動が続けられているのである。

ただ昨年は戦後50年という年に当り、また近年いろいろな戦後史の回顧が始まり、この正体不明の芸術活動の解明が求められてきた。
今度開かれる「1953年ライトアップ——新しい戦後美術像が見えてきた」展でもそうした機会を与えられて、実体解明を行なわなければならないのである。ところがこのサブタイトルにある戦後美術像というのが問題になってくるのである。すでに現在、歴史を語る場合このような戦後美術像とか、現代美術史という言葉を選ばざるを得ない。しかし美術という枠からこの工房を眺めてみると、その実体はぼやけてしまう。
この最も根本的な理由を解明しなければ、われわれの工房の実体も見えてこない。ということに実は私も最近になって気付いた。
その理由の一つは外部的なもの、つまり社会的なものであり、もう一つは内部的なもの、つまり工房自身にあったのである。ではまず外部的な理由を考えてみよう。先にも述べたように戦後50年経ってみると、日本の戦後美術史は、次第にある枠にはめられ、また何回となく語られることにより、内容的にも一つの物語となってきている。物語が形成されてゆくと、当然いくつかの常套語が生まれ、歴史の真実はある共通認識に集約されてゆく。こういう戦後日本美術史の形成過程の中で、美術という領域を限定する時、すでに「実験工房」の活動領域がそれ以外の領域へ拡がっていたことが災いとなっている。つまり、西欧やアメリカの戦後美術史を基準としてみると、「実験工房」と比較される「具体」グループの場合は、絵画を中心とした表現とパフォーマンスを中心としたニつの領域にほぼ限定され、それら二つとも戦後美術史形成の流域から外れていない。むしろ中心の流れに属し、しかも西欧やアメリカを中心に編成されてゆく美術史の中に織りこみ易い活動なのである。しかも日本の美術史家にとってもこうした評価は、日本の現代美術史のアイデンティティを提示する場合、容易に認めることができる点なのであった。
その例として1989年のパリのポンピドゥ・センターの「前衛芸術の日本 1910-1970」展や、1994 年の横浜美術館の「戦後日本の前衛美術展」でも「実験工房」の全貌に焦点を当てることができなかった。その理由は、むしろこの工房内部の中にあった。あるいは「実験工房」は美術史の対象として採り上げるべきではなかった。あるいは現代音楽史の対象として採り上げるべきではなかった。そうした限定された専門領成が形成されてしまった1990年代の見方では捉えるのが難しい活動内容であった。つまり一般の埋解を拒んできた最大の理由は「実験工房」自身の中にあったと思うのである。
その理由の解明に入る前に、一つだけ触れておきたいことがある。去る1991年に「第11回オマージュ瀧口修造 実験工房と瀧口修造」展が東京の佐谷画廊で開かれたのは、 1951年の工房結成以来初めての客観的な評価対象としての展覧会だったのである。しかもA4版130項を超えるカタログ出版は、ー画廊で出すべきものというより、第一級の美術館のなすべきものであった。この展覧会とカタログによる記録の整理によって、ようやく工房の活動内容が見えてきたのである。私自身、工房の美術活動の範囲についてまとめ、秋山邦晴は音楽活動の範囲をまとめた。
しかし、今回の展覧会に際しもう一度工房の活動を検討し、その内容を分祈してみると前回の「実験工房と瀧口修造」 カタログの中で、まだ解析が不充分であったことに気付いたのである。その点が、実は「実験工房」の正体不明な活動内容を解明する最大の鍵ではないかとさえ考え始めたのである。
「実験工房」の活動は、すでに述べたように、美術や音楽というアートの領域から逸脱し、むしろ多領域的な活動内容をもっていた。しかしもっと別の視点からみると、戦後日本の新しい文化形成期における社会的運動体だったのではないか。少なくとも専門化したアートの分野から絶えずはみだそうという遠心的なエネルギーが強力に働いていたのである。
このグループのもっていた加速する遠心力の働きを示唆していたのが、漉口修造であった。武満徹のいう精神のパトロン。
ではこの工房の特徴について、もう少し具体的な解析を加えてみよう。まずグループの形成過程は、1948年夏に開かれた「モダン・アート夏期講習会」主健日本アヴァンギャルド美術家クラブの終了後、約10名のメンバーが集まり、北代省三宅で会合をもつことになった。この中のメンバー7名は4カ月後、「七耀会」という展覧会を開き、工房のメンバーの北代、福島秀子、山口がそれぞれ抽象画を出品する。その翌年、音楽の方の核となる動きとして早稲田大学仏文科に在学中の秋山邦晴が、「現代音楽研究会」を組織し、やがて慶応大学医学部の湯浅譲二と知り合う。山口は1947年頃から、東京有楽町にアメリカの民間情報教育局が開設したCI&Eライブラリーに出入りし、新着の図書、雑誌を手にすると同時に、毎週間かれていたレコード・コンサートで新譜の現代音楽に親しみ、やがて解説を手伝っていた秋山の存夜を知る。こうして1950年にかけ美術の核と音楽の核が次第にエネルギーを増し、やがて武満徹、福島和夫、鈴木博義などと美術のメンバーとが会合をもつに至る。
こうした偶然と必然の分かちがたい働きの中で1950年代初めの時期、世界でも稀なインターメディアを目指したグループが形成されてゆくのである。
ところで、このような萌芽期にメンバーの交流にスパイスとなっていたのは、北代の専門分野であり、また彼の好奇心の強い対象であった理工学の知識であった。ビッグバンに始まる宇宙の生成から物理学とくに量子力学などの最新の知織であった。後に「実験工房」の活動が、当時の日本では珍しい科学技術的傾向から構成主義への近接があり、またミュージック・コンクレートや電子音楽に関心をもっていったのも、こうしたスパイスの働きがあったからであろう。
ところで、いま述べた背景それ自体も工房の性格に影響を及ぼしたと思われるが、何より最も特徴的なことは、すでに第1回の発表であるバレー「生きる悦び」が、スポンサーである読売新聞社の依頼によるものだという点である。またその後の工房内の共同制作の発表のほかにも、他分野のアーティストからの依頼や、他分野のプロデューサーから持ちかけられた企画に協力してゆく。工房メンバーに限定された発表ではなく、そのつど、いろいろなチーム構成で仕事をしているところが非常に珍しいのである。つまり「実験工房」というグループに属してはいるが、固定したメンバーだけで活動していたわけではないのである。また発表の対象も展覧会や演奏会のほかに、ステージを対象とした異なった分野の人たちも加わった総合的な発表の方が、むしろ多かったのである。
「実験工房」といいながら物理的な工房のない、いわばバーチャルな工房によるアーティスト群であり、また非常に流動的な仕事の展開が行われていたのである。別の言葉で言えば、早くからプロジェクト・チームのような態勢で仕事を行ってきたのが実体であろう。さらにこうした活動の方向を積極的に推進していたのが瀧口修造のその当時の思想であった。また瀧口修造と同じぐらいこの工房に期待していた岡本太郎も同様な考えをことあるごとに書いてくれたのである。既成の価値観を認めず、日本人的なムラ社会化する美術や音楽の分野にはない新鮮さが、当時の工房が行っていた活動スタイルであり、その特異性が社会的評価となっていたのである。
「実験工房」の第一回発表会で、当時のメンバーのほとんどが、こうした総合的なワークショップの方法を手探りで始めたのである。
ピカソ祭の「生きる悦び」では、振付師 兼 ダンサーとして益田隆、バレリーは谷桃子を迎えている。このバレエ公演は、直接的には読売新聞社からの依頼という形をとっているが、工房形成期である1950年に、すでに北代と今井は横山はるひバレエ団の「失楽園」の舞台美術を抽象的な造形で行ない、51年にも同じバレエ団の「河童」などで舞台美術と照明を行なっている。なおこの二つのバレエの音楽では芥川也寸志と黛敏郎が作曲している。こうした背景の中で1951年メンバーの会合の中で、展覧会の企画がもち上がっている。しかもこの展示会が、作品を並べる形式のものではなく、会場そのものを造形的形態とする方法や、バレエの装置の展示や、作品を音楽と結びつけたり、さらに展示に照明を結びつけ機械的機構による動的効果を与える方法などが考えられていた。
また独自のバレエ上演についても討議され「美女と野獣」がテーマとして挙げられていた。こうした雰囲気と着火寸前のエネルギーがたまっていたグループにピカソ祭のバレエ上演のチャンスが巡ってきたのである。したがって1952年の実験工房第2回発表会以来、現代音楽の演奏会場に造形的オブジェや照明による演出が加わったのは、上記の工房が目指していたインターメディア的方法論の実践であった・
またこのインターメディア的思考は、言い換えればインターアーティスト的な考えにも通じるものであった。したがって他の分野の様々なアーティストとのプロジェクトチームによる発表方法がとられたし、第2回発表会のプログラムを見れば分かるとおり、オリビエ・メシアンをはじめコープランドやバルトークなどの海外作曲家の初演を行っている。また公演のパンフレット、チラシ、切符などはすべて工房のデザインである。
工房の発表方法は演奏会のほかに第4回読売アンデパンダン展への工房の共同制作によるレリーフ作品の発表があり、工房の第3回発表会は造形部門を中心とした発表である。この場合も発表会という名称をとっていることに注目したい。同年8月の第4回発表会で、初めてサティやメシアンと並んで工房メンバーの武満、湯浅、鈴木の新作が発表されている。
1953年になると工房の企画ではないが「アサヒグラフ」のコラム・ページ「APN」のカット写真構成が始まり北代、山口、駒井及び写真撮影で大辻が加わる。ここでも斉藤義重、勅使河原蒼風、長谷川三郎、浜田浜雄などが加わり交流が起こっている。またその頃、大辻は阿部展也、瀧口修造を顧問とする「グラフィック集団」に属し写真を中心としたグラフィック・アートのグループに入っている。このグループは後に浜田、北代なども入り石元泰博もメンバーになっていたこともある。したがって工房はこの集団とも親しく交流していた。
またこの年には第5回発表会が開かれ「アサヒグラフ」編集長・伊沢紀の紹介によりスライド投影機と音をシンクロさせた「オートスライド・プロジェクター」を開発した東京通信工業(後のSONY)と関係をもち、この装置を生かした映像音響作品の制作にメンバー全員が参加した。この映像への関心はすでに工房の中で映画の実験への関心が高まっており、小西六などとカラーフィルムによる撮影の可能性を探っていた。また後に実現した映画「モビールとヴィトリーヌ」の試作もこの頃からスタートしていたのである。
この第5回発表会は作曲グループの発表のほかに、秋山による「テープレコーダーのための詩」と次の4本のオートスライド作品が作られた。

「水泡は創られる」構成:領島秀子/音楽:福島和夫
「レスピューグ」構成:駒井哲郎/音楽:湯浅譲二
「試験飛行家W.Sの眼の冒険」構成:山口勝弘/音楽:鈴木博義
「見知らぬ世界の話」構成:北代省三/音楽:鈴木博義、湯浅譲二

1954年には実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が行なわれ、「月に憑かれたピエロ」のほか全曲が日本初演であった。
1955年には松尾明美バレエ団と工房の共同発表が行なわれ、「イルミナシオン」、「乞食王子」、「未来のイヴ」のそれぞれを山口、福島、北代が装置・衣装をデザインしているが、作曲の方は芥川、黛、武満といった具合に工房以外の作曲も入っている。この年には工房の核エネルギーは様々な社会的展開の機会をえて拡がってゆく。
関西で実験的な歌舞伎の演出を行っていた武智鉄二は工房の活動に注目し、シェーンベルグ「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「稜の鼓」への協力を依頼する。また日劇ミュージックホールからは、岡田恵吉演出の「神の国から谷底を見れば」というボードビルの舞台に映像、造形、音楽による協力を依頼される。これはおそらく戦後わが国の舞台デザインで本格的な映画とスライドによる映像の演出として、初めてのことであり、ことに3面マルチによる上映は1970年の大阪万国博の頃になって試みられるようになったものだった。
一方新理研映画が「日本自転車工業会」から制作を依頼されていたPR映画「銀輪」は、演出助手の松本俊夫の発想でもっと実験的な映画の試みが考えられ、「実験工房」に協力を求めてきた。
この映画は今までのPR映画の常識を破るもので、自転車の夢をみる少年の幻想を抽象とシュルレアリスムの手法を探り入れながら描いたものとなった。同時に技術的実験としては東宝の特撮監督の円谷英二の協力を仰ぎ、カラーによる特撮としては日本初の映画となったものである。
その他、音楽の方では工房メンバーの作況かはそれぞれ独自の作品を発表すると同時に、様々なインターメディア的発表に協力し未知の新しい分野を開いていった。「実験工房」の活動が知られてくると、工房は当時の日本における革新的な運動体とみられるようになり、やがては1956年の「ミュージック・コンクレート・電子音楽オーディション」のように新しい実験のプロデュースを行うことになる。この時は主催「実験工房」であり、岡本太郎の「現代芸術研究所」、NHKなどが後援という形をとっている。また発表者は黛敏郎、諸井誠、柴田南雄、芥川也寸志、武満徹、鈴木博義(「試験飛行家W.S氏の眼の冒険」山口勝弘の音楽)などが集まり、会場の客席には、山口によるロープを用いた放射状の空間構成で環境をつくった。
こうした幅広い活動を通して実験を重ねたことが、工房メンバーのその後のアーティストとしての精神の核となったことは間違いない。常に時代の方向を見据えながら新しい科学技術をもっている可能性を摂取し、その技術を人間化し、新しいセンセイションを表そうとしていた。しかし同時に日本の伝統的な芸術表現の核とその文化的本質を捉え、それらをそれぞれの作品の中に醸しだす努力を忘れていなかった。
拡がってゆく工房の方向を、時には仲間の一人として時には第三者として注視し続けていたのが瀧口修造という存在であった。時には厳しい批判を述べ、しかしながら切り捨てることなく、更に無限の可能性が開かれている先を見透そうとしていたのが瀧口修造であった。なぜこれほどまでに瀧口修造が実験精神ということにこだわり、そこから生まれたものを、より多くの公衆との共有を目指したのかといえば、まさに瀧口本人が1950年代に未来の芸術を、こういう姿のものとして思い描いていたからに他ならない。
瀧口修造は常に実践者であり、しかもユートピアンであった。「実験工房」はただの一度も大仰な宣伝文を発表していない。むしろ様々な実践の中から人々に伝わっていくものを信じていた。それだからこそ形のない工房として精神の実験を続けることができたのであろう。
なお「実験工房」の成立期に瀧口によって書かれた多くの文章には、「実験工房」の活動の方向性とその可能性について述べられたものが少なくない。例えば「実験工房第二回発表会」プログラムには「実験の精神について」という文章が寄せられ「これから世界の芸術と呼吸を通じ合うためには、もっともっと、つよい思想をもたねばなりません。それには私は何よりも実験精神を養うことが必要だと思います」と述べ、実験といっても実験室だけの現象ではなく、社会や現実にふれることの必要性を強調している。また1952年の「美術批評」5月号には「芸術と実験」という論文により、科学と芸術における実験の意味の違いを述べると同時に、今日の写真や映画やラジオやテレビなどの機械を通した芸術表現の登場期にも、多くの芸術家が開拓期に実験を重ねていることを述べている。また「芸術はより大きな公衆をもつことは望ましいが、今日の時代で新しい芸術は実験期を必要とする。それを飛び越えて大きな公衆と結びつこうとするころに商業主義的なジェスチェアが生まれる。モダン・アートが軽薄なモダニズムと混合されるのは、主にこういう場面であると考えられる。しかし真の公衆が最後に芸術に求めるものは、おそらくこういうジェスチェアではあるまい」と書かれている。

2000 「ジャンルの横断—実験工房」

「万歳七唱 ~岡本太郎の鬼子たち~」展
講座『アヴァンギャルドの冒険』第3回 1996年5月27日(土)

「ジャンルの横断—実験工房」
山口勝弘

表現分野を自由に横断しながら、その都度のプロジェクトと発表の内容に従って必要なメンバーがチームを作り計画を立て実現化する。実験工房の活動が時に明確なスタイルとして見えない理由は、このような活動方法を継続していたからである。
1951年から1957年まで18のプロジェクトによって実験工房としての活動が行なわれている。

実験工房の成立前1948年頃からの各メンバーの出会いから流動的な発表活動と研究活動の始まりを含めると約9年間になるがこの間の記録を調査すると岡本太郎との濃密な関係は、瀧口修造や粛藤義重との関係と交差しながら工房へ大きな影響を及ぼしている。

工房活動の性格を作り上げている思想的星雲のなかで重要な要素として芸術の社会的な場への積極的な関与あるいはメディア的な思考を含め次のような問題を中心にとり上げてみたい。

(1)絵画制作に関するメディア的思考

1950年代初めにカオス的状況にあったアヴァンギャルド運動のなかで、北代と山口によって思考されていた絵画作品の複数制作についての提案

①1950 年8 月12 日の北代による造画術の発表
絵画における複製とその意義について述べているがその中でキャンパス若しくはパネル上に筆によって描かれる工芸的手法をとっている。一方観賞方法は展覧会に展示されるかコレクターに所有されて限定された人びとにしか見られるチャンスがない。それに対して文学作品の出版、音楽作品の演奏とレコード化などより多くの機会を通して社会の中に流通しうる。とくに映画の場合はより大きな影響力を及ぼすことができる。
新しい版画としての印刷術と絵画制作方法の革新について「造画術」という工学的技術の導入を図る。

② 1950年 10月 21 日(山口日記より)
オブジェに当てられた光線により作られた影がそれ自身一つの絵画的空間として独立し、オブジェに仕掛られたメカニズムによって従来の絵画が表現しなかった運動を2次元上の空間にみせる試みの可能性。それは2次元空間と3次元空間の透入を図り、3次元空間のオブジェと2次元空間の運動する影をそれぞれ独自の存在として価値づける。 将来の壁面装飾の活用の道がある。

③ 1950年 12月 21 日(山口日記より)
北代氏の考える版画論より現実的な絵画複製論の提案。
作曲家の作品を色々な解釈で演奏家が表現するように作者自身が複製を行うのみならず、 製作者が寸法を変えたり材質感を変えたりモチーフのアレンジを行っても可能なリペインテッド(再絵画)の権利を保証する画作権を法律的に認める。
従来の絵画作品は創作者としての芸術家と製作者としての芸術家がl人に専属していた。 一品性のものであり過ぎたためヴァレリーカ時嘆に似た言葉で述べていたように最も古い型の労働者である画家の経済的自立のために、同じ絵を何回でも描けるような技術の改良
(他人により 10枚20枚の複製可能な描き方の)を提案している。※

(2)造形制作及び作曲活動における技術的可能性の実験が試みられる

①ピカソ祭「生きる悦び」このバレエ上演に際し上演中に特殊効果の部分があり秋山の詩(音声)とメトロノームの音のテープ上の合成が行なわれ、音響と造形作品と色光照明の効果が総合された。

②「実験工房第 5回発表会」における「オートスライド作品 J及び「テープレコーダーのための交響詩」の上演
スライド投影装置とデープレコーダーによる映像と音響の上演プログラムの同期を図る装置が東京通信工業(現 SONY)で開発されその装置によるマルチメディア作品の制作の依頼を受ける。一方秋山はテープレコーダーに録音される詩と音楽のテーフ上ての加工手法に基つく音響詩を提案した。すでに第1回発表の時からミュージックコンクレートの可能性と新しい櫛駒導入に積極句だった工房はマルチメディア型のソフト制作を行った。

③「バレエ実験劇場」
松尾明美バレエ団と実験工房のコラボレーションで行なわれ作曲に芥川也寸志と武満が参加。

④「神の固から谷底みれば」
日劇ミュージックホールと実験工房のコラボレーションが行なわれヴィトリーヌによる舞台装置と、スライド2面 映画l面の3面スクリーンによるマルチプロジェクションが行なわれる。

⑤「円形劇場形式による創作劇の夕」
演出家武智鉄二と実験工房のコラボレーションが行なわれ、シェーンべルグの「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「綾の鼓」の上演に協力し、とくに能や狂言のデザインを尖鋭化した北代と福島の舞台デザインと仮面や衣装が特色を生んだ。

⑥映画「銀輪」
新理研映画と実験工房のコラボレーションによる制作で、松本俊夫と円谷英二の協力によりシュールレアリスム風及と抽象映像のため特撮の映画デザインに工夫を重ねると共にフィルムの特殊処理を実験する。

⑦「ミュージック・コンクレート/電子音楽オーディション」
現代芸術研究所との共催により黛敏郎、柴田南雄、芥川也寸志などの参加による新しい時代の音響世界のデモンストレーションを行なう。

(3)この頃新しい音響についての理論的条件について考えていたこと

「オートメーションによる作曲」北代省三美術批評1956年1月号
ここで考えられている作曲は、コンピュータ・ミュージックの基本的原理を述べているもので、音楽表現にまつわる従来のいわく言い難い神秘性や、演奏家のクセなとについて新しい技術観の導入によって失なわれるものの是非を問うているのではない。ミュージック・ コンクレートや電子音楽の可能性を拓くための基本的条件を述へている。こうした北代の理論をもとに作曲家グループをはじめとする工房メンバーは討論を重ねていたのである。

(4)山口勝弘による「ヴィトリーヌ」(瀧口修造命名)の新しい空間造形 としての展開の可能性とその実践について

瀧口修造は次のように述べている。「一種の空間の音楽として鑑賞すればよいので、新しい建築の新しい装飾として推奨したいと思う。」
「海外の国際見本市の展示あたりに生かしたら面白いと思う。」
「現代のこうした芸術と建築を結ぶ機会ほど暖かな希望を抱かせてくれるものは、私にはありません。」
1954年以来3回にわたる銀座和光ギャラリーでの展示計画に第l回高村英也、第2回清家清、第 3回丹下健三により展示方法やデザイン計画に協力をえている。 またそれと平行して看板デザインやインテリアなと、への応用デザインも試みられている。

※これらの構想から約l年後、山口は「ヴィトリーヌ」という新しい表現手段の実験的制作を始める。その作品の構造からみて後に瀧口修造は「絵画とオブジの両棲類」と述べている。また山口は1953年「ヴィトリーヌ」の構造について「実用新案権」(No.1061) を取得している。