1954 美術家の仕事 バレエの舞台装置

まだ、昨年のことだから、おぼえているひとも多いだろう。あのスラヴェンスカ・フランクリン舞踊団がやったバレエ「欲望という名の電車」の舞台についてである。既に映画や芝居によってこの戯曲にしたしんでいたひとびとも、それがバレエになったとき、前記のものの何れともちがった表現の世界をみたにちがいないが、この舞台装置が、また、古典バレエの背景幕にみなれたひとびとにとっては、変った祭賞にみえたことだろう。
あの振付や音楽がつくりだしてゆく、現実と幻想の異様にまじりあう雰囲気は、一枚の写実的に描かれた背景幕によって、強めることができたであろうか。むしろ、あの雰回気をさきえきれずに、写実のむなしい力金みせていたかもしれない。
(後略)

美術家の仕事 バレエの舞台装置 pdf

シンフォニー No.4、昭和29年(1954年)6月

1956 色彩オルガン

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「音楽の方面では、最近ミュージック・コンクレートや電子音楽が研究されている。この間も、山葉ホールで舞台にひとりの演表者も登場しない音楽会が開かれたりした。ところで、こういう動向を導いているものの考え方は、音楽にだけ現われているものだろうか。現代の美術家の考えているととと何か共通したものはないだろうか。もちろん、この両者が扱っている素材に違いがあるから、クイズ的に類似点を探しだしても何にもならない。ただ、楽器と演奏者を観客の前に置かないという考え方、また機械的な操作が作曲と演奏(録音)を緊密に結びつけているという方法が、『色彩オルガン』と呼ばれているものを思わせる。」(後略)

「シンフォニー」1956年3月 No.17

色彩オルガン pdf

1969 現代日本美術展と私

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「現代日本美術展と私」山口勝弘
三彩 1969年7月 No. 246

第9回現代日本美術展
主催:毎日新聞・日本国際美術振興会
会期:1969年5月10ー30日
会場:東京都美術館

現代日本美術展について、中原佑介氏のかわりに書くことを引きうけ、果して、自分が批評家のかわりに何か書くことができるのか、と自問したとたんに、自分が書きたいことは何かと考えこんでしまった。
実は4月25日から一カ月間、JEAAなるグループとソニー企業によって、エレクトロマジカ69という展覧会を企画し実現し、いろいろなことで、頭の中の問題を少し整理する必要があったし、まだその整理をまとめるのに十分な時間がもてない状態なので、この原稿も、おそらくは中途半端になってしまうのではなかろうか。現代日本美術展には、私自身、迷路の部屋の出品にまぎれこみ、予想以上に部屋がせまくて、制作した物を並べるのに意図した効果がでなくて、がっくりしていたし、その展覧会も終って、またたくまに、大量な金網の立体と、フォーム・ラバーの 80cm × 80cm × 80cm の立体が、私の手元へ戻ってきて、その仕末になやんでいるのが、いまの私の状況であるから、これまた適当なコンディションではない。
一体、なんのために現代日本美術展などに出品したのだろう。こういった反省にちかい後悔の気持をもつのは、作家としてほめられたことではないが、おそらく、美術批評家といった肩書の人たちには、全く縁のない気持であることは間違いない。
(後略)

「現代日本美術展と私」- 三彩 – 1969年7月 – No24 pdf

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1994 実験工房から淡路芸術村へ Metafort Symposium

“Artistic Creation, Technological Innovation, Social Experiment”,
First Metafort’s Symposium,
September 30th and October 1st 1994 in Aubervilliers, France.

「芸術的創造、技術的発明、社会的実験」
第一回メタフォール・シンポジウム、
1994年9月30日+10月1日、オーベルヴィリエ、フランス

実験工房から淡路芸術村へ
山口勝弘

私はいま日本列島の中の小さな島で新しい芸術活動の担点、を作ろうとしている白淡路島芸術村(Awaji Island Art Village)である。日本の古い神話である「古事記」 によれば、IZANAGI という男神とIZANAMI という女神が天の上から長い矛をもって海の水をかきまわして最初に作った島がこの淡路島である。

すべての神話がそうであるように、それは民族や部族が集団化してゆく過程でできた物語である。私の直感的なひらめきがこの島に芸術村を作ろうという構想を生みだしたが、その動機は古い時代の神話にあったわけではない。いま私たちは人類史上もっとも多くの出来事の凝縮された世紀の最後を迎えている。恐らくまだ神話という形にはなっていないかもしれないが、空と地上と海上を超高速で走りまわる人類と物質、そしてコンピュータ内部と人聞のもつコンビュータ・ネットワークの聞を超高速で走りまわる情報とが新しい集固化した地球上の人聞の意識を生みだしている時代なのだ。

その時代を迎えた時、地球上のどんな地点にも芸術活動の拠点、を作るととが可能になるはずである。パリやニューヨークや東京のような大都市の中だけが芸術の中心となる時代ではなくなるだろう。

私が数年前、淡路島を選んだもっとも大きな理由の一つは、島から高速艇で30分の距離に新しい国際空港の建設が始まっていたことと、20世紀末前にこの島が東洋一の橋によって本州と結ばれるととが決っていたからである。園内的にも国際的にも高速化する交流の場に組み込まれ、またコンピュータネットワークの進展は人口一万人の町でさえ世界の大都市と全く変わらない情報網によって生きるのである。

芸術活動は常に個人の才能やインスピレーションから生まれるものではなかった。時代を見越したあるアーテイストの先見的な視線が他のアーテイストの視線と交差し、アトリエは実験的な工房となり、新しい芸術の運動体となり社会的な場を形成していった。

ワイマール共和国のパウハウス(Bauhaus) も、その流れを受け継いだノースカロライナのブラック・マウンテン・カレッジ (Black Mountain College) も、日本の近世京都郊外の鷹ケ峯(Takagamine) に集まった尾形光淋(Korin Ogata)らの芸術村も、それらは新しい芸術運動の艶点であり才能あるアーテイストたちによる凝縮された集団が強烈な磁場を形成していた。

私にとってアーテイストとしての社会的活動の出発点となったのは1951 年に東京に結成されたグループ「実験工房」(Experimental Workshop)であった。これは詩人でシュルレアリスムの日本での最初の紹介者でありプルトン(Andre Breton)やデュシャン(Marcel Duchamp)と親突のあった瀧口修造(Shûzô Takiguchi)によって名づけられたグループであった。詩人、作曲家、照明デザイナー、写真家、画家、造形作家、そしてエンジニアが加わったインターメディアグループの誕生であり、最初の発表が戦後日本で閲かれたピカソ展を記念し、ピカソ(Pablo Picasso)の絵画「生きる悦び’」 (Joy of Life) をテーマとしたバレーの上演であった。

このグループ活動の特徴は実験工房という名前にもかかわらず具体的な工房を持たなかったことにある。戦後の日本で芸術家のための工房をもっととは殆ど不可能に近かったーしかしもっとも重要なととは芸術上の実験精神をメンバー全てが共有していたことであり、観念の工房を心の中に形成していたことであった。メンバーの交流は今も続き発表を共にすることもある。

私自身の芸術活動の核はつねに次の時代を目標とした活動の磁場を形成することにあった。1960年には「集団現代彫刻」 (Shûdan Contemporary Sculpture Group) という彫刻と環境の場を考えるグループを結成し、1960 年代を通して日本の現代彫刻が公共の空間に進出する道を開いた白1971 年には日本ではじめて「ビデオひろば」 (Video Plaza) というビデオアート活動の運動体をつくり、1981 年には「グループ・アール・ジュニ」 (Group Arts-Unis) を結成してエレクトロニクスアートの活動の母体をつくった。このグループはコンビュータアート、ホログラフイアート、キネティックアート(Kinetic Art)、ライトアート、コンピュータ・ミュージックなど独立した分野が形成されてゆく申で、それらの専門分野を横断的に結ぶのが目的であった。すでに1970 年代以降メディアと結びついたアートの分野の活動は即時的に全世界の活動と愛読が始まっていたため、日本の中の活動も地理的ハンディキャップを考える必要がなくなりつつあった。1989年からは「グループ・アール・ジュニ」 の活動の延長線上に名古屋市でARTEC ビエンナーレ(International Biennale in Nagoya-Artec)が始まりエレクトロニクス・アートの重要な発表の場が生まれた。

私自身アーテイストとしてアート・アンド・テクノロジーからエレクトロニクス・アートへと作品活動を展開してきたが、一方1977年よりこの分野での日本で最初の教育活動の場が筑波大学(University of Tsukuba)の中に総合造形コース(Plastic Arts and Mixed Media) という名称で設置され、私はととの教授となった。この大学の工房とビデオとホログラフィーの研究室はエレクトロニクス・アート時代のバウハウスの誕生であった。また「実験工房」時代から26 年後にできた具体的な実験工房であった。

それからすでに17年の時聞が流れ私は新しい形の精神共同体の申に生きている。今回オ一ベルヴィリエ市(Aubervilliers)にできるシテ・デ・ザール(La Cité des Arts) の最初の世界的プレゼンテーションの記念シンポジュームに招かれた今、ここに集まった私の友人を含む多くの方々と共に私の実験精神に新しい活力がそそぎとまれているのを感じる。淡路島芸術村について若干具体的な説明を述べてみたい。この島には漁業や農業を営む人たちが多く、島の環境には自然の景観が多く残っている。人聞は五感すべてを包んでくれる自然環境の中で脳の中でのパーセプションとインタラクティプな関係を持つことによって強い快適感を感じとる。このような自然を背景とした場の申で環境芸術やメディアによって結ばれた芸術活動の可能性を考えるための「濠境芸術メディアセンター」(Center of Environmental Art and Media -C.E.A.M.)を中心にアーテイスト・イン・レジデンスのための住居とアトリ工、更に作品の貯蔵庫と展示空間を用意する。

1994年中に具体的な全体計画を作り、1995年より道路の造成を行ない1996 年よりセンターの建設に入る予定である。

この芸術村の要の場所に1994年7月に私のArt Factory が完成をみたーとのArtFactory が先ず芸術村での活動の実験工房であり、研究所であり、また若い芸術系大学や若い学生のための私的教育空間としても機能させてゆくー淡路島に出来た委員会では、淡路島芸術村はあくまでも自然の中の村的雰囲気を大切にしながら発展させるべきで、巨大な建物や多数の運営経費によって白業自縛に陥る道はとるべきではないという意見の提案がでている。


De l’Atelier Expérimental au Centre des Média et Arts Environnementaux

Yamaguchi Katsuhiro

Je développe actuellement le projet du Geijutsu Mura (Village des arts) à Awajishima, une petite île de l’archipel nippon. Selon le Kojiki (la “Chronique des faits anciens” établie en 712), la déesse Izanami et le dieu Izanagi remuèrent les eaux marines depuis le ciel à l’aide d’une longue hallebarde, jusqu’à former la première terre de l’archipel, Awaji.

Comme la plupart des mythes, il s’agit d’un récit qui a pris forme grâce au processus de regroupement de différentes éthnies et tribus. La raison qui m’a poussé à former le projet d’un “village des arts” sur cette île n’est cependant pas l’existence de ce mythe. Nous approchons de la fin d’un siècle qui a connu, comparativement aux autres périodes de l’histoire humaine, un nombre considérable d’événements. Les plus marquants n’ont peut-être pas encore été retranscrits sous la forme de mythes, mais ils ont néanmoins donné naissance à une conscience collective nouvelle des hommes sur la terre, qui s’est notamment transformée en fonction des possibilités, sur terre comme sur mer, de déplacement ultra-rapide des hommes et des choses, et de circulation des informations au gré des réseaux informatiques.

À l’avènement d’une telle époque, nous devons être en mesure de construire des bases d’activités artistiques en n’importe quel point géographique du globe terrestre. Nous ne sommes en effet plus à l’âge où l’art ne se crée que dans les métropoles telles que Paris, New-York ou Tôkyô.

L’une des raisons principales pour laquelle j’ai choisi il y a quelques années l’île d’Awaji, est que celle-ci se trouve à trente minutes par bateau rapide du nouvel aéroport international du Kansai, et qu’elle se trouvera reliée avant la fin de ce siècle à l’île principale de Honshû par un pont colossal. Elle est ainsi en passe de devenir un lieu d’échanges à haute vitesse, à l’échelle nationale comme internationale : l’évolution des réseaux électroniques lui permettra de développer un environnement informatique qui n’aura rien à envier à celui des grandes villes.

La création artistique n’est pas toujours déterminée par le génie ou l’inspiration d’individus isolés : lorsque que la clairvoyance d’un artiste qui a su prévoir l’évolution d’une époque s’est confronté au regard d’autres artistes, que son atelier s’est transformé en un laboratoire où ont pu avoir lieu de multiples expériences et est ainsi devenu le support d’un mouvement artistique, celui-ci a ainsi créé un lieu social.

Le Bauhaus de la République de Weimar, le Black Moutain College créé en Caroline du Nord aux États-Unis, ou encore le village des arts qu’Ogata Kôrin fonda à Takagamine dans la banlieue de Kyôto, furent chacun des foyers d’activités artistiques sans précédent qui devinrent, grâce aux quelques artistes talentueux qui les établirent, des lieux d’un magnétisme puissant.

En tant qu’artiste, mes activités publiques débutèrent avec la création du groupe Jikken Kôbô (Atelier Expérimental) en 1951. Son nom fut choisi par le poète Takiguchi Shûzô, proche d’André Breton et de Marcel Duchamp, qui introduisit au Japon le surréalisme. Le groupe intermédia qui naquit alors rassemblait poètes, compositeurs, créateurs d’éclairages, photographes, peintres, plasticiens et ingénieurs. Notre première œuvre collective fut la réalisation d’un ballet sur le thème du tableau de Picasso “La joie de vivre”, lors de l’exposition rétrospective du peintre qui eut lieu au lendemain de la guerre.

Bien qu’il fut intitulé “Atelier Expérimental”, la caractéristique des activités de ce groupe fut de se développer sans utiliser de lieu particulier. Dans le Japon de l’après guerre, il était en effet quasiment impossible de posséder un atelier destiné à la création artistique. La condition qui a véritablement présidé la création du groupe fut l’esprit d’expérimentation artistique commun à chacun de ses membres. La communication entre ces artistes s’est poursuivie, et leurs œuvres continuent d’être présentées aujourd’hui.

Le noyau de mes activités fut toujours orienté vers la création de lieux “magnétiques” destinés aux générations futures. En 1960, je formai le groupe Shûdan Gendai Chôkoku (Groupe Sculpture Contemporaine), qui proposait une réfléxion sur les lieux possibles de création de la sculpture et de l’environnement. Celui-ci ouvrit alors une voie vers les espaces publics à la sculpture japonaise contemporaine. En 1971, je fondai le Video Hiroba (Video Plaza) avec un groupe d’artistes qui pratiquaient l’art vidéo, et en 1981, le groupe Âru-Juni (Arts-Unis), qui devint un véhicule d’activités pour les arts électroniques. Alors qu’il se composait d’artistes venus de domaines artistiques autonomes : infographie, holographie, art cinétique, création d’éclairages ou musique par ordinateur, son but fut d’envisager un lien transversal entre ces territoires spécialisés. À partir des années soixante-dix, la création artistique liée aux média commençait à opérer des échanges simultanés avec le monde entier, et il fut de moins en moins pertinent d’envisager la situation géographique du Japon comme un handicap. En 1989, dans le prolongement des activités du groupe Arts-Unis, fut créée la Biennale Internationale de Nagoya (ARTEC), et celle-ci devint un des lieux privilégiés de présentation des arts électroniques au Japon.

En tant qu’artiste, j’ai moi-même développé des œuvres depuis les domaines de “l’art et la technologie” jusqu’à ceux des “arts électroniques”, et ai fondé en 1977 la section Sogô-zôkei (Arts plastiques et média mixtes) à l’université de Tsukuba. Cette section est devenue le premier lieu d’activités pédagogiques dans ce domaine au Japon, et j’y ai enseigné jusqu’en 1993. Les ateliers et les laboratoires de vidéo et d’holographie de cette université ont ainsi donné naissance à un “Bauhaus” de l’époque électronique : vingt-six ans après la fondation du Jikken Kôbô, ce sont devenus de véritables “ateliers expérimentaux”.

Mais dix-sept années se sont déjà écoulées depuis la fondation de ce département, et je vis à présent dans un contexte spirituel collectif différent. J’ai été invité à participer au symposium de célébration de la première présentation mondiale de la Cité des Arts d’Aubervilliers, et, de même sans doute que les personnes qui y sont présentes, je sens une énergie nouvelle pénétrer mon esprit avide d’expériences. J’aimerais présenter ici les activités du Village des Arts de l’île d’Awaji. Les habitants de cette île exercent principalement la pêche et l’agriculture, et les paysages naturels y sont encore très nombreux. Dans un tel environnement où les cinq sens se trouvent ainsi enveloppés, l’homme ressent un sentiment de bien-être car il peut y entretenir des relations interactives sur le plan de la perception. Il s’agit d’un projet d’”artistes en résidence” qui prévoit des habitations, des ateliers, ainsi que des entrepôts et des espaces d’exposition pour les œuvres : le Kankyô Geijutsu Media Center/C.E.A.M. (Centre des Média et Arts Environnementaux) propose de réfléchir aux possibilités de création artistique liée à l’environnement et aux média, dans un espace entouré de paysages naturels.

Avant la fin 1994 sera proposé le plan concret de l’ensemble du projet. En 1995, les voies d’accès seront construites, et la construction du centre débutera dès 1996.

Mon atelier, le Yamakatsu Kôjô, a été achevé en juillet 1994. Il s’agit de l’”Art Factory”, l’”atelier expérimental” du village des arts, qui aura également fonction de centre de recherche et de centre pédagogique pour les jeunes universités d’arts et les jeunes artistes. Le comité exécutif de l’île d’Awaji tient à développer le projet du Geijutsu mura sans tomber dans le piège des frais excessifs d’administration et de construction de grands bâtiments, en préservant son atmosphère de village à l’intérieur d’un environnement naturel exceptionnel.

(Traduction : Christophe Charles)

1987 「限りなく実体から遠ざかる時へ向う」

特集 = テクノ・アート
ユリイカ、昭和62年6月号

限りなく実体から遠ざかる時へ向う
山口勝弘

いつも問題になるのは、ハイテクノロジーと芸術という場合、作品を制作する過程で、地味な手仕事的な仕事の部分が少なくないことが見逃されている点である。
ハイテクなどというと頭と機械だけで、作品が出来上がってしまうようにみえるらしい。
しかし実際には、そういうわけにはいかない。
結果として機能的に動いているものでも、手仕事、人力、まとめるための時間が必要不可欠な要素となっている。だから、ハイテクノロジー・アートという名称で呼ばれる分野は、しばしば素朴な誤解を蒙っている。
ハイテクノロジーに属する電子テクノロジーとともに、従来の機械テクノロジーが組み込まれているものもあるし、とくに芸術作品というのは、一品生産というより実験要素をもった試作品に近いものが多いから、制作の過程には手仕事の占める割合が高い。
にもかかわらず、あえてハイテクノロジー・アートという理由には、ハイテクノロジーを基盤として形成されつつある、ポスト・インダストリアル社会を意識して、そのなかに生成されつつある文化的変容、感覚的変容、あるいは意識に影響を与えてゆくであろう知覚上の新しい刺激を、作品のなかで把えようとしているからである。
そして、もう一つ言葉の問題として触れておかなくてはならないのは、我が国で使われているハイテクノロジーという言葉は、欧米の場合、ニューテクノロジーあるいは、エレクトロニクスという言葉に相当する。
しかしいずれにせよ、ハイにせよニューにせよ、何に対してそうなのか、その差別はどこにあるのかという問題はのこる。
ただ、われわれが用いているのは、芸術の分野での用語としてであり、また前にも述べたように、先端技術そのものの研究ではないから、かなり曖昧な語法である。
決して責任回避の意味ではないが、たとえば十九世紀の印象派だとか、二十世紀初めの立体派のような、芸術上の動きや運動を意味しているものと言っていいだろう。

ところで、このハイテクノロジー・アートという領域の芸術はどのような概念によって把えるべきなのか、テクノロジーに価値を置いているのか、あるいはそれら二つの分野はどのように関係しているのか、いろいろ疑問を呼ぶであろう。
すでに、一九六〇年代にアート・アンド・テクノロジーという言葉によって、芸術と科学技術の関わる作品や表現手段を意識的に把えようとしたことがある。
そして、この時代に考えられていたことは、新しく生まれつつある技術上のノウハウが、芸術家のアイデア、あるいは表現手段に役立つかもしれないという期待が前提となって、芸術家と技術者とのお見合いを試みた例の「E・A・T」(experiments of art and technology)に代表されている。
しかし、すでに一九五〇年代末から一九六〇年代を通じて、戦後に開発の進んできたテクノロジーやメディアの発達は、芸術家たちの気づくよりも早く、生活の各領域への実用化が進行し、ほとんどの場合、すでに実現した技術の成果を芸術に応用する、という方向を受け入れざるをえなかった。
たとえば、一九六〇年代のライト・アートや、キネティック・アートや、映像にかかわる実験映画やマルチ・プロジェクションなども、それらの作品に用いられる素材やテクノロジーは、必ずしも新しい分野のものに限られていたわけではない。
むしろ、実用化してしまっている素材やテクノロジーを、審美性や表現上の面から見直しを計ったものだといっていい。
つまり、テクノロジーの成果を、芸術の視点からもう一つ別の成果として拾いだすことが行われた。ということは、テクノロジーそのものの価値を、社会的視点とか、人間的視点という設定から、もう一度問い直すということにより、芸術上での可能性を発見するという、楽天的な見方に立って行われたという批判があった。
この種の批判というのはテクノジーを意識したり、その結果を作品制作の手法として導入する場合、必ず起こってくる種類のものである。
しかし、芸術そのものが社会のなかで果たしている機能からみて、テクノロジーを積極的に導入しまいとしようと、テクノロジー導入という立場だけに限定して批判してしまうのは間違いだし、テクノロジーに全く無関係な素材や技法を用いているからといって、それがテクノロジー批判となっているわけではないのも当然である。
そして、この種の批判が、その対象として概念化しているものが、常に表面的な作品の現象を指しているか、既成のアート・アンド・テクノロジーという文脈で作品を見ている場合か、どちらかである。とくに、後者の場合にはテクノロジーが、体制側の倫理のままに開発され、一種のイデオロギー化してゆく路線への批判がある。
しかし、少なくとも二十世紀のアート・アンド・テクノロジーの歴史をふりかえってみると、テクノロジーに対する芸術家たちの反応や、その導入の立場には、支配的なテクノロジーに対して盲目であったとはいえない。

芸術家にとって、新しいテクノロジーはつねに、芸術を社会に向かって開示してゆくためのものであると同時に、社会に対して封印してゆくためのものであった。
この両義性をより強く意識化する上で、しばしば芸術でのテクノロジーの認識が、社会的機能から逸脱したり、ユートピア的な傾向を帯びさせざるをえなかったのは当然である。
たとえば、一九二〇年代に、二十世紀におけるアート・アンド・テクノロジーの方向を国家的イデオロギーと平行して、芸術上のイデオロギーとしたロシア構成主義の運動のなかにも、一種のカウンター・テクノロジーの流れがあり、それは当時の主流から外れた有機的構成主義と呼ばれている。
この流れを代表しているのは、タトリンとミトゥーリチであり、いわゆる無機的な機械によって構成されていく形態ではなく、自然界につながる有機的形態から、そのデザインを示唆される方向を選んでいた。
この二人の有機的構成主義者への思想的系譜には、哲学者のニコライ・フェードロフの名とその影響を受けた詩人のクーレブニコフがいる。なかでもフェードロフは地球上へ構成的なモニュメントを打ち立てる重力主義的なテクノロジーではなく、磁力と引力の相互作用と法則のコントロールによって、地球そのものをあたかも一個の宇宙船として、宇宙空間を意のままに旅行させるシステムを提案していた。
この磁力に対する関心は、同じく一九二〇年代にオーストリアの建築家フレデリック・キースラーの思想的背景にも現れているもので、のちにキースラーの造形的関心を表現した「銀河系シリーズ」の作品のなかに継承されている。
キースラーは、その遺著とでもいうべき『エンドレス・ハウスの内面』(一九六六)のなかに「モビロイド」と名付けた構想を発表している。
Mobiloid の構想を実現するメカニズムとして、彼は磁力場の壁を考えていた。この見えない壁の後に、電磁力を組み込まれたオブジェが浮かんでいて、緩急自在に動かすことになる。それらは決められた軌道の上で止まったり、走ったり、あるいは時計の針のようにゆっくりと動くこともできる。
こうして人間は、この磁力の働きを、分サイクル、時間サイクル、また昼夜のサイクルへ切り替えることが可能である。聴きたい音楽をとりだせるミュージック・ボックスのように、自由な演奏を楽しめる。場合によっては偶然の働きも機械的なセットから送り出すこともできる。
このキースラーの「モビロイド」こそ、現在の超伝導物質とコンピュータ制御を用いれば、高度なキネティック・アートの道を拓くものとなるだろう。
キースラー自身も、「この絵画でも、彫刻でも、実際のオブジェでもないモビロイドこそ、室内に宇宙を創造するものとなる」と述べている。
フェードロフの構想は、地球そのものを磁力場によって動かすという壮大なものが、キースラーの「モビロイド」と同じく、惑星が宇宙空間の軌道上を運行している、その宇宙運動の抽象化であり、また自然の法則のリアリティとともにあるテクノロジーの考えに基づいていた。
こうした宇宙的構想力から生まれるテクノロジーによる構成主義が、クーレプニコフの「未来都市」のスケッチのなかに描かれている。
たとえば蜂の巣状の構築物のなかに、ガラス製の規格型の住宅ユニットが挿入されるものは、取り外し自由で、移住者の必要に応じて、あちこちの構築物の間を移動し旅行することができる。
こういう重力的支配や定着から解放されてゆく生活のテクノロジーは、シャルル・フーリエ的哲学にもつながる。
このクーレプニコフの影響を受けた結果、ミトゥーリチの飛行運動と波動運動へのテクノロジー研究が生まれることになる。ミトゥーリチの飛行体への関心は、タトリンの飛行体「レタトリン」より数年早く構想され、一九一四年から始められている。その後第一次世界大戦とロシア内戦をはさむ休止をへて、最初のオーニソプターの制作に入っている。
やがてミトゥーリチの関心は、波動運動の研究へ発展し、翼や飛行に関する数多くのパテントを取得する。さらに一九三〇年に入ると、魚と同じように水中を泳ぐメカニズムをもつ船の研究「VOLNOVIK」へ入ってゆく。

この「VOLNOVIK」と呼ばれるメカニズムの船は、波動運動を動力とすることによって水中を進んでゆく。そのための形態から構造にいたる数多くのドローイングが描かれ、いもむし状の動きを伝達する細部のメカニズムの研究を続けている。ミトゥーリチをこのような、一種のユートピア的なテクノロジーへと駆り立てていった理由は、実は彼自身が抱き続けていた、自然そのもののなかにあるテクノロジーへの共感であり、人間がテクノロジーによって作り出すであろう環境を、芸術—建築家によって再構築することにあったからである。
ミトゥーリチはすでにこの三〇年代の時点で、アメリカ型のテクノロジーに対して、対抗テクノロジーの意義を説いていたのである。彼は、アメリカの社会を養鶏所型テクノロジーとして批判していたが、彼自身のソ連もまた、結果的に同じ道をたどることになった。
そのアメリカにおいて、バックミンスター・フラーやフレデリック・キースラーが、近代主義から肥大していったテクノロジーの危機を訴え、理想主義的な哲学を背景としながら、対抗テクノロジーに立った建築と都市像を提案したのは一九四〇年代以降のことになる。
とくにフラーは生態学的視点を取り入れた「宇宙船地球号」という名称で、地球そのものを宇宙船とみる立場からテクノロジーの再編成を試みようとした。
こうした近代テクノロジーは社会的プリンシプルとして、アメリカをはじめ西欧型近代諸国に波及してゆくなかに、対抗テクノロジーの可能性を追っていたユートピアンたちがいたのである。
そして、芸術家たちはこうした時代の進展のなかで、テクノロジーから埋めれる審美主義と、芸術そのもののなかにある対抗性によって、アート・アンド・テクノロジーの歴史を進めていたといえる。
したがって、一九六〇年代の近代主義の終焉が、アメリカの無謀な戦いの継続によって加速されるとともに、アート・アンド・テクノロジーの一部の作品は、美術館のコレクションとしてリタイヤーしてゆかざるを得ない。

ところで、この一九八〇年代に至り、ふたたびアートとテクノロジーの関わりが注目されるようになってきたのは、いかなる理由なのか。
たしかに、一九六〇年代がその締めくくりのの時点で、「機械時代の終りに当って」というニューヨーク近代美術館の展覧会のタイトルの示す通り、エレクトロニクスを中心とする新しいテクノロジーの時代へのバトンタッチを行なった。とするとなら、この一九八〇年代は一九七〇年代という地球への回顧の準備期のあと、ふたたびテクノロジーへの期待の高まる時期を迎えているといえる。
しかし、この一九八〇年代に現れてきたハイテクノロジーの姿と実体は、すでに一九六〇年代のように形あるもの、触知可能なものから遠ざかっている。
たとえば、コンピュータ・グラフィックの果たしつつある役割は、テレビ・コマーシャルやCGアートのような視覚上の感覚から意識層へ侵入してくるイメージ上の操作よりは、軍事上の、科学上のさまざまな研究のシミュレーション装置として、頭脳判断を行なう上で欠くことのできない操作機能をもち、また機械設計から都市計画へ至るあらゆる人工物の設計とデザインにも多大な貢献をしている。
こういう多機能というより万能に近い能力を帯びたテクノロジーが、われわれの生活に深くかかわるとき、はたして芸術という言葉の持っている価値基準が、いまだに有効であるのだろうか。
かつて自然が人間の生活に深く関わりを持っていた時代には、自然のなかに秘められたテクノロジーを掘り出し見つけ出すことによって、われわれの生活が豊かになっていったし、また自然を見ることによって、われわれの美や感性の豊かな可能性を得ることができた。
しかし、こういう言い方の自然だけが、いまわれわれにとっての自然ではない。形の見えないものも、触知しえないものも、新しいテクノロジーは見えるものにする。いわゆるシミュラクルな方法によって生まれている世界、あるいはシミュレーションによってのみ人間とかかわりあえる世界が、眼の前にある。
コンピュータ・グラフィックの画面を見て、われわれが驚くのは、ただ単に」CRT上にあらゆる対象物の三次元空間の運動が描き出されるという点にではない。
あらゆるモーション・コントロールを備えた眼の移動—視点のダイナミズムをわれわれはシミュレーションしているのである。対象物を動かすという手法や、動く対象物を記録する方法から生まれたキネティック・アートや、映画の目的としたものとはまったく異なる方法論が生まれたのである。
ロシア構成主義のなかの対抗テクノロジーとして夢見たフェードロフや。キースラーの「モビロイド」にあった磁力場による地球から物体までの自由な操作は、少なくともこのコンピュータ・グラフィックが可能とした視点のダイナミズムと対象の超三次元的運動操作によって、CRT上のシミュレーションとして実現している。
しかし実は、われわれの物理的な肉体はじっとCRTの前に座っている。われわれの眼は、子の静止した肉体のなかに埋め込まれたまま、CRT上をさまよっているだけである。
すべての浮遊感、すべての高速移動は、CRT上でのシミュレーションにすぎない。われわれの肉体は、一歩もこの部屋の空間を出ることなく、静止したまま、宇宙空間のあらゆる地点を移動しつづけることさえ可能である。
この経験は、すでに高度一万メートルを飛行するジェット旅客機の乗客であるわれわれが、シートベルトによって座席に固定されたまま、小さな窓から地球上を眺めているときのものと、それほどの隔たりはない。
また、スペース・シャトルの乗員が経験しているであろうシャトル船内での日常生活も同じような、シミュレーション・コントロールによって行なわれるものであろう。
ということは、テクノロジーのもたらしつつある世界は、人間の進化というよりは退行化させる条件の上に、新しい勝ち基準を見いだそうとしていることになる。
すでに述べたように、新しいテクノロジーは、芸術によって新しい世界を開示するかしないかより、テクノロジーそのものが、新しい世界の内容を開示しているのだし、また芸術の役割にかかわると否にかかわらず、人間を世界から封印してゆくためのものであろうそしている。

ハイテクノロジー・アートと呼ばれる多くの作品の共通項として挙げられるのは、視覚的世界に生起する軽やかな光の脈動感や、絶えず変わり続けるイメージの移ろいや、休まず永遠に動き続ける精密な運動感などである。
これらのオブジェを見ていると、宇宙の最後まで止まることのない法則のままに生き延びてゆくかのような錯覚に陥る。
伊藤隆道の回転するオブジェや、松村泰三の発光風車や、無眼焦点から飛来するビデオ・アートのイメージなどに現れているものだ。
しかし一方、シミュレーション化されるイメージ世界が、その背後に多かれ少なかれ重さをもった物体世界の支持体から逃れられないために、それらの作品や装置は子宮内の胎児のように、母親である地球とつながっているのである。
さきに述べたCRT上でシミュレートされる無重力的視点の運動が、視覚から身体へ想像力の場を形成しているときも、われわれの身体が物質的存在であり続けているのと同様に、CRTの画面は、依然としてガラスのチューヴと四角っぽい箱のボディーから逃れられないままでいる。
私の作品「プラネット・ステーション」が、鏡の上に傾斜したCRTの画面を映し出し、あたかも水面上の反映とともに暗黒空間にシミュラクルな立方体が浮遊しているかのような世界を見せながら、意識のもう一つのスイッチは、二十一インチのテレビ・ボックスにいつでも切り換えられる。
ハイテクロジーと結びついて生まれる芸術の持っている宿命的な姿が、ここに現れている。
だから、たとえ眼の前の空間に、立体の運動するホログラフィックなイメージが出現したとしても、それらはイメージイメージ世界に属しているだけで、われわれの物理的身体が占める空間へ、内部浸透をゆるさない。
最近のハイテクノロジー作品のいくつかのものには、こうしたイメージ・シミュレーションと物質の間の相互関係を意識的にとりあげようとしているものが現れている。
たとえば、逢坂卓郎が続けているシュールレアリスティックな環境装置をみると、それは映画「ブレードランナー」ほど文学的ではないにせよ、一種の終末的な世界のジオラマである。
イメージが、光や音とともに明滅しているこの環境は、水や仕切り壁の物質的存在が絶えず剥離しつづけ、しかもそのなかにいるわれわれも自分の肉体が蒸発化しているような存在として感じる。
J・G・バラードの「バーミリオン・サンズ」シリーズに描き出されている未来の透明な終末風景とは、まったく逆の陰湿な雰囲気をもっていながら、やはりこの二つの環境装置は表裏一体のものであるかのように思うつまり、CRT やホログラム化されるイメージ上のシミュレーションとは別の、物質的環境のシミュレーションとともにイメージ化させる方法論をとっている。
そして、こういうハイテクノロジー化という未来世界への見通しから仮構される環境シミュレーションは、いわゆる美術世界で試みられるインスタレーションとはまったく別の次元のものである。
また、同じく逢坂と作曲家田崎和隆が、オーストラリア生まれのステラークと試みている一連のパフォーマンス/インスタレーションも、人間の身体機能をハイテクノロジーに結びつけながら、ライヴな生命活動をシミュレーション世界へ開示している作品である。
ここでも人間の機械化、あるいは人間化という二元論的なマン・アンド・マシーン的世界とは一線が引かれている。
バウハウスや未来派のなかでイメージ化されていたロボットではないし、人体に埋め込まれたサイボーグ的な付属品でもない。ステラークの身体と外部環境に発生するイメージ要素が、肉体的生体と連続しながら、分離/結合をあたかも引力と斥力の間に保たれた惑星のようにバランスさせている。それはステラーク自身にも、見ている観客にとっても、まことにスリリングな瞬間の連続である。
このようないくつかのハイテクノロジーによって開示されてゆく芸術活動をみると、イメージと物質の間に形成されてゆく環境シミュレーションや、身体シミュレーションを通過して、ふたたびあのCRT上のイメージ・シミュレーションを眺めてみると、ファミコン、ゲームを含むあらゆる映像装置が、近い将来さらに環境化し、身体接合化してゆく可能性を思わせる。その可能性は現在われわれが感じとっている三次元的な素材や装置の物質性や、作品制作の手仕事や、作品が果たしている芸術上での機能性を、さらに超えてゆく方向を暗示している。
映像装置の高精細度が進行するとともに、そこから生まれ、加工され、伝送されてゆくあらゆる映像の超薄膜化してゆくイメージが、存在と非存在の中間の浮遊場を創出しながら、必要とあらばあらゆる物質的相対(物質として扱うために中性化しつつある表面)の上に、束の間に止まり、束の間に消えてゆくような時を迎えるかもしれない。
それはおそらく、次世代のハイテクノロジー・アートの姿かもしれないし、またはそれらの現実化したイメージの発生と消滅の状態を、すでに物質性の失われた対象としてみれば、芸術という重たい言葉によって決めつける必要のないものとして感じるべきことなのかもしれない。
芸術は、次第にうつろいゆく陽炎のような形として、あるいは記録というよりは記憶に近い姿をもって、人間の周辺と人間の内部に漂うものとなるのかもしれない。

(やまぐち かつひろ/ビデオ作家・美術評論)

「限りなく実体から遠ざかる時へ向う」直筆

2000 ’70年万博再考 – 総合的な演出空間の創造

シリーズ’70年万博再考
総合的な演出空間の創造
山口勝弘 環境芸術家

概要

1960年代の芸術は、時代の雰囲気を吸いながら芸術作品という対象の制作から次第に離脱してゆくのである。環境芸術という言葉がすでにそういう兆候を示しているのである。すなわちいままでの芸術はそれぞれの表現分野の枠の中で、ある定められた形式によって、求心的な存在となっていたのである。美術でいえば、それは絵画という表現であり彫刻という表現であった。つまり作品は近代を通してこういう形成の中で存在し、また受容されていたのである。しかし環境という条件の中で作品という存在を考えた場合、形式によって枠づけられた条件は、環境という周囲をとりまく条件によって相対的なものとならざるを得ない。もっとはっきり言えば、作品を規定していた分野の境界が不分明となり、場合によっては作品という求心的存在が融解し、環境そのものになってしまうことすら考えることを許してしまう。造形芸術のとるべき姿にあった素材感や形態感が失われてゆくのである。そして作品の素材や形態の中に機械的なイメージが導入され、キネティックな運動感が加えられても、まだ作品という形式は最終的に存続していたのである。しかし人工的な光が作品の素材にとって変わり、その光が周囲の環境の中に拡がってゆくと共に、作品は形態の枠によって規定されなくなっていった。1960年代の造形作品はキネティックアートとライトアートの二つの方向から環境性を強く意識させたのである。

このことは、1960年代を特徴づける三つの展覧会のタイトルの中に十分読みとることができる。「色彩と空間」 展(1966年 南画廊)、「空聞から環境へ」展(1966年 松屋)、「現代の空間’68<光と環境>」 展に共通しているのは、空間を色彩とか光によって環境化していくという方向である。もちろんそれぞれの展覧会に出品された作品の内容を見ると単純にはくくれないが、とにかくタイトルの中には、こうした新しい造形のリテラシーが求められていたことは事実である。

1966年には日本でも1970年の大阪万国博への参加を目的としたグループが結成され、展覧会とイベントが開催された。「空間から環境へ」というタイトルが示しているように、作品展示を行うと同時に観客のために新しい人工的環境を提案することを狙っていた。

またこのグループのメンバーには、建築家、グラフィックデザイナー、インダストリアルデザイナ一、画家、彫刻家、造形作家、映像作家、音楽家などが含まれている。

そして直接博覧会を目指してはいないが、アメリカでも芸術家とエンジニアの協力によるインターメディアを目的としたグループ「E.A.T.」 が結成され、ここでも電子技術、音響技術、映像技術と芸術が協力し、さらに舞踊家が参加したいわゆる大空間でのパフォーマンスが行われた。

また万博に参加した外国パビリオンでも、アメリカ館、コカコーラ館、ドイツ館、フランス館、スイス館、カナダ館などでは前衛的なアーティストやデザイナーが協力していた。こうした状況の中で、マスメディアは各パビリオンの入場者数の集計をテレビの視聴率のように発表した。この結果、前衛的な芸術家の実験的手法と大衆性が、必ずしも一致しない結果となり、アート&テクノロジーの時代的潮流は1970年以降一時退潮してゆく、しかし1970年代に入るとビデオアートとコンピュータグラフィックスがExpo’70の映像メディアをさらに尖鋭な方向へ進めてゆく。

1960年代の時代的動向

電子工学技術は、最初に宇宙ロケットの制御システムに利用され、同時にシステム・エンジニアリングの手法によって閉鎖型プロジェクトの実施に応用された。これに対し、芸術家たちが用いる技術システムは、即興性とアナログ性の高い人間のパフォーマンスに結びついて用いられた。したがっていわゆる「人間=機械系」といっても、まったく異なった発想を出発点としていたのである。

「E.A.T.」の活動は、ベル・テレフォン研究所の技術者ビリー・クリューバーを中心に、ラウシェンバーグや、ロバート・ホイットマン、ジョン・ケージ、アレックス・へイ、デビィッド・テュードアなど美術、音楽、舞踊など多領域からの参加者によって行われた。

その中でも、1966年に、ニューヨークの旧兵器廠(有名なアーモリー・ショーの聞かれた建物)で、「演劇とエンジニアリングの九夜」というイヴェントがひらかれ、これが芸術と技術の新しい結びつきを示す大きな出来事となった。ここで新しいというのは、閉回路テレビ系や、シンセサイザーを組み込んだ音楽の演奏を含めて、メディア指向の強い演出が行われた点である。また演奏者と観客との間の区別を取り払い、いわゆる観客参加の上演形式が目立った。

この観客参加という形式は、1950年代末からアラン・カプローによって始められたハプニングの延長線上にあり、ハプニングがよりインター・メディア化し、また電子工学の新しい技術と結びついたものが、この「E.A.T.」のパフォーマンスの特徴となっていった。

すでに「E.A.T.」のパフォーマンスが、これらの装置をメディアとして利用していたように、音楽の分野では1960年代に入ると電子音楽の実験が始められていた。西独のケルン放送局の電子音楽スタジオは、そうした活動に関心を持つ音楽家のメッカであった。

やがてフランス、アメリカ、日本などでも電子音楽スタジオの実験活動が始まる。美術の分野でもコンピュータにプログラムされた図形を、XYプロッターで紙面上に描き出す方法が考えられ「コンピュータ・グラフィックス」が実現する。さらに、これらの図形を連続的に変化させ、一本のフィルム上に記録させるコンピュータ・フィルムの実験が始まる。アメリカのスタン・ヴァンダーピーク、ジョン・ホイットニーはコンピュータ・フィルムの先駆者である。とくにスタン・ヴァンダーピークは、自分の家に小型の半球ドームを建て、そこにマルチプロジェクション装置を置き、映画の環境的展示に興味をもっていた。

ではなぜ前衛的な芸術家たちが動員されたのかといえば、おそらく次の二つの理由からだろう。

一つの理由は、この万国博では直接的な商品展示が禁じられていたことである。したがって芸術的な展示によるパビリオン間の競争が起こった。

二つ日の理由は、1番目の理由とも関係するのだが、わが国の工業技術社会のハードウェアは、ほぼ世界水準に達した。そこでそれらのテクノロジーの利用技術、つまりソフトウェアの開発に対する産業界の期待があった。

時あたかも、ミニスカートとビートルズの時代、つまり大衆文化の中にファッション現象の新しい展開が始まっていた。この大衆文化社会の新しいエポックを可能にしたのは、情報とそれらを伝達する新しいメディアの力に負っている。
1970年の万国博は、ある意味で情報化社会への導入的役割を果たしたのである。ここでいう情報化社会というのは、情報に対する社会的関心が高くなり、情報そのものに対する価値評価が高くなってゆく社会を示している。1960年代の半ばからコンピュータの導入が、社会の各分野で本格化するとともに、コンピュータ・アート、つまりコンピュータによる芸術が生まれている。しかし、コンピュータ・アートも、むしろ70年代に入って着実な展開をとげる。

ところで万国博の芸術的成果を考えると、一つはモニュメンタルな建築技術上の実験が行われたことだろう。富士パビリオンの空気構造による巨大建築物、パイプによる世界最大の構造体となったお祭り広場の大屋根、また各国パビリオンを含めて、事務所的建築物ではなく表現的な建築物について、世間の関心を集めたことも一つの成果となった。とくにパビリオン内部の演出的空間構成の場で、造形家たちの技術が利用されたのである。

この万国博が一種の映像博といわれたように、マルチ・プロジェクションの手法が開発され、太陽の塔内部の粟津潔のプロデュースによる「マンダラマ」、東芝IHI館の泉真也のプロデュースによる「グローバル・ビジョン」、富士グループ館のマルチ・プロジェクション、せんい館の松本俊夫による「アコ」、三井グループ館の山口勝弘による「スペース・レヴュー」などがあった。その他「E.A.T.」のグループと中谷芙蓉二子によるぺプシ館の演出は、惜しくも企業側の意見により会期半ばで中止されてしまった。また鉄鋼館では、武満徹の音楽と宇佐美圭司のレーザ一光線の演出が結びついたものなど、視覚芸術上の数多くの実験が行われている。

三井グループ館の構想

動くパビリオン、コンバイン、道線モンタージュ理論−建築としての形からの発想でなく、パビリオンが外部的にも内部的にも動的な演出を行うというのが山口勝弘、東孝光、一柳慧の中心構想、だった。と同時に観客をこの動的な演出にまきこんでしまうために、入口から出口にいたるまでを、連続的な演出によって構成する。この考えが道線モンタージュ理論である。そして全体の構想をまとめていくのに各部分や各担当分野相互の間に、調和のあるまとまりを求めるより、むしろ異質な要素の結合、つまりコラージュ的な発想を大切にしようということでコンバインという考えが採択された。

これら3つの基本的理論の結果として、われわれの作るパビリオン全体が、自己完結的な閉ざされた演出を観客に提供するのではなく、いつも動的で観客がおのおの用意された演出の各要素を、自由に自分の体験として選択できるような方向が目標とされた。つまりわれわれ作る側の三原則は、そのまま観客にとっての三原則となっている。観客の動く体験、体験の中にモンタージュされてゆく各演出内容、連続的な体験のコンバインといった考えに翻訳されるもので、これは静的な鑑賞ではなくハプニングやイヴェントのような動的な経験に通じる芸術との接触である。

●基本構想からトータル・シアターに向かって

このトータル・シアターという形式は、いわゆる環境芸術の、ひとつの本格的な上演の形式であり、すでに20世紀はじめから演劇、映画、音楽、舞踊などの各ジャンルの進歩的な芸術家たちの構想として、いくつかの試案が発表されてきた。しかし、本格的な実現のチャンスはブラッセルの万国博におけるコルビュジェ、クセナキス、ヴァレーズなどによるフィリップス館の場合がはじめてであった。

●演出装置

光映像の諸装置は、高さ11メートル、幅26メートルのスクリーンが3面、ドームを取り囲んでいる。さらに、前期の各ターン・テーブル上に、小型スクリーンが付属する。

プロジェクタ一関係では、映画の上映のために、16 ミリのプロジェクターが18台、ダイレクト・プロジェクション上映のための9 台の特殊投影装置、さらにストロボ・プロジェクター3台などが備えられている。

音響装置は1726個のスピーカーがドーム内各所に配置されている。天井の二重のリング上に配置された天井スピーカ一群、ドーム内壁に等間隔に配置された壁面スピーカー、500数個のスピーカーを壁体パネルに仕込んだ3ヶ所の群集スピーカ一、ドームの中央のボールにのっている4組のセンター・ポール・スピーカーなどがある。空間的に配置されたこれらのスピーカーからは10チャンネルのテープによる音響、コンピユータ・プログラムと音素材発生機によって生み出される音響が複雑な音像ディスプレイによって空間的に発生する。

映像そのものについては16ミリの映写機とダイレクト・プロジェクターによる多層マルチ・プロジェクションを実験している。すなわち映画とスライド・プロジェクションをコンバインし、それらを同時的に投影するのである。

映像は今日の世界をかたちづくっている、自然と人間のさまざまな営みの断片である。普通写真、特撮、さらにポジフィルムをネガにしたり、同じくポジをカラーモニターテレビに通して色ぶれをおこしたり、豊富なテクニックを用いている。それらのモンタージュもマルチプルの手法を最大限に生かして、左右上下に、速やかな転換方式を伴って、変化をつけている。その中には、たとえば、CM的な短いカットを3ないしは5秒間ほど同時に複数で見せることにより、同時体験のおもしろさをねらったこころみもある。音響と映像、観客の動きなど、これらすべての演出は、コンピュータの制御によって行われる。

こうした「トータル・シアター」の実現によって従来の音楽、オペラ、バレエ、ミュージカル、演劇、映画など、劇場という空間とそのための機能に基づいた芸術のコミュニケーションと体験の質とが、根本的に違った経験を観客に与えることが可能となる。一方、このパビリオンでは図面でもわかるように、入口から出口までの観客の体験の中で、とくに対話の散歩道と休息室である想い出の空間は、自分にかえるためのフィードバックを考えたサイバネティックスな演出になっている。

さてこのような巨大演出空間での体験とその実験は、その後私自身の兵庫県立近代美術館での「銀河庭園」展でのパフォーマンス、埼玉県立近代美術館でのマルチメディア型の「光と音によるエレクトロ・ソカロ」の演出、パリのユネスコホールで発表された「イメージ・シナプス」及びスイスのロカルノで発表された「メタボリズム・イン・ロカルノ」の光と音楽と映像演出や、最近では愛知県文化会館での「コラボアート・環」及び「縁」の総合演出などに生かされ、博覧会とは違う日常空間での新しい演出として生かされている。


山口勝弘(やまぐちかつひろ)
1951年日本大学法学部卒業。北代省三、武満徹らと「実験工房」を結成する。68年「第34回ヴェニス ビエンナーレ」に参加。72年ビデオによる芸術活動を目的とした「ビデオ広場」を結成。75年「第13回サンパウロ ビエンナーレ」にてビラーレス工業賞受賞。85年「第6 回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」黄金のレーザー賞受賞。93年「第14回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバル」ヨーロッパ委員会名誉賞およびロカルノ市グランプリ。95年東京都現代美術館エントランス・ロビーに「光と音のインスタレーション」、同じく中庭パティオに「音のインスタレーション」を制作する。96年新宿オペラシティのギャレリアに、20mにわたるパブリックアート「音の気配」を制作する。97年アーテック’97にメディアインスタレーション「トリアディックガーデン」を発表。98年東京都写真美術館の「電子時代の新たなる肖像展」へ「Flee St.lt Art Rope」を出品。同年、ICCギャラリーの「バベルの図書館展」にビデオ彫刻を出品する。同年、愛知県芸術文化センターにおいてパフォーマンス「コラボアート−縁−」の総合演出を行う。99年大阪市住まいの情報センターおよび台北市第2美術館入口ホールにマルチメディア型パブリックアートを制作するなど、造形から光、映像、音響まで幅広いメディアを駆使した環境デザインを行っている。
著書に「環境芸術家キースラー」「ロボットアヴァンギャルド」等がある。
現在、環境芸術家。(株)環境芸術メディアセンタ一代表。筑波大学名誉教授および神戸芸術工科大学名誉教授。

1996 「1953 年ライトアップ」展 「実験工房」

「1953 年ライトアップ」展図録より
目黒区美術館1996年

実験工房
山口勝弘

「実験工房」が、一つの集団として活動を始めてから、すでに45年を経ている。もしグループのメンバーが、工房へ向けて集まりだした時期を、前期として含めるならば1948年という時点からになる。つまり半世紀近い以前になる。
しかし今なお、「実験工房」とは何だったのか、どんな活動を行なっていたのかについて、明確な輸郭が摑めない。その集団としての活動期は、1958年頃をもって終りを迎えているが、各メンバーはその後、この工房の実体解明にかまけていたわけではない。むしろ「実験工房」のイデーは、その後の工房メンバーの仕事の中に引き継がれ、時には共同の仕事としてなお活動が続けられているのである。

ただ昨年は戦後50年という年に当り、また近年いろいろな戦後史の回顧が始まり、この正体不明の芸術活動の解明が求められてきた。
今度開かれる「1953年ライトアップ——新しい戦後美術像が見えてきた」展でもそうした機会を与えられて、実体解明を行なわなければならないのである。ところがこのサブタイトルにある戦後美術像というのが問題になってくるのである。すでに現在、歴史を語る場合このような戦後美術像とか、現代美術史という言葉を選ばざるを得ない。しかし美術という枠からこの工房を眺めてみると、その実体はぼやけてしまう。
この最も根本的な理由を解明しなければ、われわれの工房の実体も見えてこない。ということに実は私も最近になって気付いた。
その理由の一つは外部的なもの、つまり社会的なものであり、もう一つは内部的なもの、つまり工房自身にあったのである。ではまず外部的な理由を考えてみよう。先にも述べたように戦後50年経ってみると、日本の戦後美術史は、次第にある枠にはめられ、また何回となく語られることにより、内容的にも一つの物語となってきている。物語が形成されてゆくと、当然いくつかの常套語が生まれ、歴史の真実はある共通認識に集約されてゆく。こういう戦後日本美術史の形成過程の中で、美術という領域を限定する時、すでに「実験工房」の活動領域がそれ以外の領域へ拡がっていたことが災いとなっている。つまり、西欧やアメリカの戦後美術史を基準としてみると、「実験工房」と比較される「具体」グループの場合は、絵画を中心とした表現とパフォーマンスを中心としたニつの領域にほぼ限定され、それら二つとも戦後美術史形成の流域から外れていない。むしろ中心の流れに属し、しかも西欧やアメリカを中心に編成されてゆく美術史の中に織りこみ易い活動なのである。しかも日本の美術史家にとってもこうした評価は、日本の現代美術史のアイデンティティを提示する場合、容易に認めることができる点なのであった。
その例として1989年のパリのポンピドゥ・センターの「前衛芸術の日本 1910-1970」展や、1994 年の横浜美術館の「戦後日本の前衛美術展」でも「実験工房」の全貌に焦点を当てることができなかった。その理由は、むしろこの工房内部の中にあった。あるいは「実験工房」は美術史の対象として採り上げるべきではなかった。あるいは現代音楽史の対象として採り上げるべきではなかった。そうした限定された専門領成が形成されてしまった1990年代の見方では捉えるのが難しい活動内容であった。つまり一般の埋解を拒んできた最大の理由は「実験工房」自身の中にあったと思うのである。
その理由の解明に入る前に、一つだけ触れておきたいことがある。去る1991年に「第11回オマージュ瀧口修造 実験工房と瀧口修造」展が東京の佐谷画廊で開かれたのは、 1951年の工房結成以来初めての客観的な評価対象としての展覧会だったのである。しかもA4版130項を超えるカタログ出版は、ー画廊で出すべきものというより、第一級の美術館のなすべきものであった。この展覧会とカタログによる記録の整理によって、ようやく工房の活動内容が見えてきたのである。私自身、工房の美術活動の範囲についてまとめ、秋山邦晴は音楽活動の範囲をまとめた。
しかし、今回の展覧会に際しもう一度工房の活動を検討し、その内容を分祈してみると前回の「実験工房と瀧口修造」 カタログの中で、まだ解析が不充分であったことに気付いたのである。その点が、実は「実験工房」の正体不明な活動内容を解明する最大の鍵ではないかとさえ考え始めたのである。
「実験工房」の活動は、すでに述べたように、美術や音楽というアートの領域から逸脱し、むしろ多領域的な活動内容をもっていた。しかしもっと別の視点からみると、戦後日本の新しい文化形成期における社会的運動体だったのではないか。少なくとも専門化したアートの分野から絶えずはみだそうという遠心的なエネルギーが強力に働いていたのである。
このグループのもっていた加速する遠心力の働きを示唆していたのが、漉口修造であった。武満徹のいう精神のパトロン。
ではこの工房の特徴について、もう少し具体的な解析を加えてみよう。まずグループの形成過程は、1948年夏に開かれた「モダン・アート夏期講習会」主健日本アヴァンギャルド美術家クラブの終了後、約10名のメンバーが集まり、北代省三宅で会合をもつことになった。この中のメンバー7名は4カ月後、「七耀会」という展覧会を開き、工房のメンバーの北代、福島秀子、山口がそれぞれ抽象画を出品する。その翌年、音楽の方の核となる動きとして早稲田大学仏文科に在学中の秋山邦晴が、「現代音楽研究会」を組織し、やがて慶応大学医学部の湯浅譲二と知り合う。山口は1947年頃から、東京有楽町にアメリカの民間情報教育局が開設したCI&Eライブラリーに出入りし、新着の図書、雑誌を手にすると同時に、毎週間かれていたレコード・コンサートで新譜の現代音楽に親しみ、やがて解説を手伝っていた秋山の存夜を知る。こうして1950年にかけ美術の核と音楽の核が次第にエネルギーを増し、やがて武満徹、福島和夫、鈴木博義などと美術のメンバーとが会合をもつに至る。
こうした偶然と必然の分かちがたい働きの中で1950年代初めの時期、世界でも稀なインターメディアを目指したグループが形成されてゆくのである。
ところで、このような萌芽期にメンバーの交流にスパイスとなっていたのは、北代の専門分野であり、また彼の好奇心の強い対象であった理工学の知識であった。ビッグバンに始まる宇宙の生成から物理学とくに量子力学などの最新の知織であった。後に「実験工房」の活動が、当時の日本では珍しい科学技術的傾向から構成主義への近接があり、またミュージック・コンクレートや電子音楽に関心をもっていったのも、こうしたスパイスの働きがあったからであろう。
ところで、いま述べた背景それ自体も工房の性格に影響を及ぼしたと思われるが、何より最も特徴的なことは、すでに第1回の発表であるバレー「生きる悦び」が、スポンサーである読売新聞社の依頼によるものだという点である。またその後の工房内の共同制作の発表のほかにも、他分野のアーティストからの依頼や、他分野のプロデューサーから持ちかけられた企画に協力してゆく。工房メンバーに限定された発表ではなく、そのつど、いろいろなチーム構成で仕事をしているところが非常に珍しいのである。つまり「実験工房」というグループに属してはいるが、固定したメンバーだけで活動していたわけではないのである。また発表の対象も展覧会や演奏会のほかに、ステージを対象とした異なった分野の人たちも加わった総合的な発表の方が、むしろ多かったのである。
「実験工房」といいながら物理的な工房のない、いわばバーチャルな工房によるアーティスト群であり、また非常に流動的な仕事の展開が行われていたのである。別の言葉で言えば、早くからプロジェクト・チームのような態勢で仕事を行ってきたのが実体であろう。さらにこうした活動の方向を積極的に推進していたのが瀧口修造のその当時の思想であった。また瀧口修造と同じぐらいこの工房に期待していた岡本太郎も同様な考えをことあるごとに書いてくれたのである。既成の価値観を認めず、日本人的なムラ社会化する美術や音楽の分野にはない新鮮さが、当時の工房が行っていた活動スタイルであり、その特異性が社会的評価となっていたのである。
「実験工房」の第一回発表会で、当時のメンバーのほとんどが、こうした総合的なワークショップの方法を手探りで始めたのである。
ピカソ祭の「生きる悦び」では、振付師 兼 ダンサーとして益田隆、バレリーは谷桃子を迎えている。このバレエ公演は、直接的には読売新聞社からの依頼という形をとっているが、工房形成期である1950年に、すでに北代と今井は横山はるひバレエ団の「失楽園」の舞台美術を抽象的な造形で行ない、51年にも同じバレエ団の「河童」などで舞台美術と照明を行なっている。なおこの二つのバレエの音楽では芥川也寸志と黛敏郎が作曲している。こうした背景の中で1951年メンバーの会合の中で、展覧会の企画がもち上がっている。しかもこの展示会が、作品を並べる形式のものではなく、会場そのものを造形的形態とする方法や、バレエの装置の展示や、作品を音楽と結びつけたり、さらに展示に照明を結びつけ機械的機構による動的効果を与える方法などが考えられていた。
また独自のバレエ上演についても討議され「美女と野獣」がテーマとして挙げられていた。こうした雰囲気と着火寸前のエネルギーがたまっていたグループにピカソ祭のバレエ上演のチャンスが巡ってきたのである。したがって1952年の実験工房第2回発表会以来、現代音楽の演奏会場に造形的オブジェや照明による演出が加わったのは、上記の工房が目指していたインターメディア的方法論の実践であった・
またこのインターメディア的思考は、言い換えればインターアーティスト的な考えにも通じるものであった。したがって他の分野の様々なアーティストとのプロジェクトチームによる発表方法がとられたし、第2回発表会のプログラムを見れば分かるとおり、オリビエ・メシアンをはじめコープランドやバルトークなどの海外作曲家の初演を行っている。また公演のパンフレット、チラシ、切符などはすべて工房のデザインである。
工房の発表方法は演奏会のほかに第4回読売アンデパンダン展への工房の共同制作によるレリーフ作品の発表があり、工房の第3回発表会は造形部門を中心とした発表である。この場合も発表会という名称をとっていることに注目したい。同年8月の第4回発表会で、初めてサティやメシアンと並んで工房メンバーの武満、湯浅、鈴木の新作が発表されている。
1953年になると工房の企画ではないが「アサヒグラフ」のコラム・ページ「APN」のカット写真構成が始まり北代、山口、駒井及び写真撮影で大辻が加わる。ここでも斉藤義重、勅使河原蒼風、長谷川三郎、浜田浜雄などが加わり交流が起こっている。またその頃、大辻は阿部展也、瀧口修造を顧問とする「グラフィック集団」に属し写真を中心としたグラフィック・アートのグループに入っている。このグループは後に浜田、北代なども入り石元泰博もメンバーになっていたこともある。したがって工房はこの集団とも親しく交流していた。
またこの年には第5回発表会が開かれ「アサヒグラフ」編集長・伊沢紀の紹介によりスライド投影機と音をシンクロさせた「オートスライド・プロジェクター」を開発した東京通信工業(後のSONY)と関係をもち、この装置を生かした映像音響作品の制作にメンバー全員が参加した。この映像への関心はすでに工房の中で映画の実験への関心が高まっており、小西六などとカラーフィルムによる撮影の可能性を探っていた。また後に実現した映画「モビールとヴィトリーヌ」の試作もこの頃からスタートしていたのである。
この第5回発表会は作曲グループの発表のほかに、秋山による「テープレコーダーのための詩」と次の4本のオートスライド作品が作られた。

「水泡は創られる」構成:領島秀子/音楽:福島和夫
「レスピューグ」構成:駒井哲郎/音楽:湯浅譲二
「試験飛行家W.Sの眼の冒険」構成:山口勝弘/音楽:鈴木博義
「見知らぬ世界の話」構成:北代省三/音楽:鈴木博義、湯浅譲二

1954年には実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が行なわれ、「月に憑かれたピエロ」のほか全曲が日本初演であった。
1955年には松尾明美バレエ団と工房の共同発表が行なわれ、「イルミナシオン」、「乞食王子」、「未来のイヴ」のそれぞれを山口、福島、北代が装置・衣装をデザインしているが、作曲の方は芥川、黛、武満といった具合に工房以外の作曲も入っている。この年には工房の核エネルギーは様々な社会的展開の機会をえて拡がってゆく。
関西で実験的な歌舞伎の演出を行っていた武智鉄二は工房の活動に注目し、シェーンベルグ「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「稜の鼓」への協力を依頼する。また日劇ミュージックホールからは、岡田恵吉演出の「神の国から谷底を見れば」というボードビルの舞台に映像、造形、音楽による協力を依頼される。これはおそらく戦後わが国の舞台デザインで本格的な映画とスライドによる映像の演出として、初めてのことであり、ことに3面マルチによる上映は1970年の大阪万国博の頃になって試みられるようになったものだった。
一方新理研映画が「日本自転車工業会」から制作を依頼されていたPR映画「銀輪」は、演出助手の松本俊夫の発想でもっと実験的な映画の試みが考えられ、「実験工房」に協力を求めてきた。
この映画は今までのPR映画の常識を破るもので、自転車の夢をみる少年の幻想を抽象とシュルレアリスムの手法を探り入れながら描いたものとなった。同時に技術的実験としては東宝の特撮監督の円谷英二の協力を仰ぎ、カラーによる特撮としては日本初の映画となったものである。
その他、音楽の方では工房メンバーの作況かはそれぞれ独自の作品を発表すると同時に、様々なインターメディア的発表に協力し未知の新しい分野を開いていった。「実験工房」の活動が知られてくると、工房は当時の日本における革新的な運動体とみられるようになり、やがては1956年の「ミュージック・コンクレート・電子音楽オーディション」のように新しい実験のプロデュースを行うことになる。この時は主催「実験工房」であり、岡本太郎の「現代芸術研究所」、NHKなどが後援という形をとっている。また発表者は黛敏郎、諸井誠、柴田南雄、芥川也寸志、武満徹、鈴木博義(「試験飛行家W.S氏の眼の冒険」山口勝弘の音楽)などが集まり、会場の客席には、山口によるロープを用いた放射状の空間構成で環境をつくった。
こうした幅広い活動を通して実験を重ねたことが、工房メンバーのその後のアーティストとしての精神の核となったことは間違いない。常に時代の方向を見据えながら新しい科学技術をもっている可能性を摂取し、その技術を人間化し、新しいセンセイションを表そうとしていた。しかし同時に日本の伝統的な芸術表現の核とその文化的本質を捉え、それらをそれぞれの作品の中に醸しだす努力を忘れていなかった。
拡がってゆく工房の方向を、時には仲間の一人として時には第三者として注視し続けていたのが瀧口修造という存在であった。時には厳しい批判を述べ、しかしながら切り捨てることなく、更に無限の可能性が開かれている先を見透そうとしていたのが瀧口修造であった。なぜこれほどまでに瀧口修造が実験精神ということにこだわり、そこから生まれたものを、より多くの公衆との共有を目指したのかといえば、まさに瀧口本人が1950年代に未来の芸術を、こういう姿のものとして思い描いていたからに他ならない。
瀧口修造は常に実践者であり、しかもユートピアンであった。「実験工房」はただの一度も大仰な宣伝文を発表していない。むしろ様々な実践の中から人々に伝わっていくものを信じていた。それだからこそ形のない工房として精神の実験を続けることができたのであろう。
なお「実験工房」の成立期に瀧口によって書かれた多くの文章には、「実験工房」の活動の方向性とその可能性について述べられたものが少なくない。例えば「実験工房第二回発表会」プログラムには「実験の精神について」という文章が寄せられ「これから世界の芸術と呼吸を通じ合うためには、もっともっと、つよい思想をもたねばなりません。それには私は何よりも実験精神を養うことが必要だと思います」と述べ、実験といっても実験室だけの現象ではなく、社会や現実にふれることの必要性を強調している。また1952年の「美術批評」5月号には「芸術と実験」という論文により、科学と芸術における実験の意味の違いを述べると同時に、今日の写真や映画やラジオやテレビなどの機械を通した芸術表現の登場期にも、多くの芸術家が開拓期に実験を重ねていることを述べている。また「芸術はより大きな公衆をもつことは望ましいが、今日の時代で新しい芸術は実験期を必要とする。それを飛び越えて大きな公衆と結びつこうとするころに商業主義的なジェスチェアが生まれる。モダン・アートが軽薄なモダニズムと混合されるのは、主にこういう場面であると考えられる。しかし真の公衆が最後に芸術に求めるものは、おそらくこういうジェスチェアではあるまい」と書かれている。

2000 「ジャンルの横断—実験工房」

「万歳七唱 ~岡本太郎の鬼子たち~」展
講座『アヴァンギャルドの冒険』第3回 1996年5月27日(土)

「ジャンルの横断—実験工房」
山口勝弘

表現分野を自由に横断しながら、その都度のプロジェクトと発表の内容に従って必要なメンバーがチームを作り計画を立て実現化する。実験工房の活動が時に明確なスタイルとして見えない理由は、このような活動方法を継続していたからである。
1951年から1957年まで18のプロジェクトによって実験工房としての活動が行なわれている。

実験工房の成立前1948年頃からの各メンバーの出会いから流動的な発表活動と研究活動の始まりを含めると約9年間になるがこの間の記録を調査すると岡本太郎との濃密な関係は、瀧口修造や粛藤義重との関係と交差しながら工房へ大きな影響を及ぼしている。

工房活動の性格を作り上げている思想的星雲のなかで重要な要素として芸術の社会的な場への積極的な関与あるいはメディア的な思考を含め次のような問題を中心にとり上げてみたい。

(1)絵画制作に関するメディア的思考

1950年代初めにカオス的状況にあったアヴァンギャルド運動のなかで、北代と山口によって思考されていた絵画作品の複数制作についての提案

①1950 年8 月12 日の北代による造画術の発表
絵画における複製とその意義について述べているがその中でキャンパス若しくはパネル上に筆によって描かれる工芸的手法をとっている。一方観賞方法は展覧会に展示されるかコレクターに所有されて限定された人びとにしか見られるチャンスがない。それに対して文学作品の出版、音楽作品の演奏とレコード化などより多くの機会を通して社会の中に流通しうる。とくに映画の場合はより大きな影響力を及ぼすことができる。
新しい版画としての印刷術と絵画制作方法の革新について「造画術」という工学的技術の導入を図る。

② 1950年 10月 21 日(山口日記より)
オブジェに当てられた光線により作られた影がそれ自身一つの絵画的空間として独立し、オブジェに仕掛られたメカニズムによって従来の絵画が表現しなかった運動を2次元上の空間にみせる試みの可能性。それは2次元空間と3次元空間の透入を図り、3次元空間のオブジェと2次元空間の運動する影をそれぞれ独自の存在として価値づける。 将来の壁面装飾の活用の道がある。

③ 1950年 12月 21 日(山口日記より)
北代氏の考える版画論より現実的な絵画複製論の提案。
作曲家の作品を色々な解釈で演奏家が表現するように作者自身が複製を行うのみならず、 製作者が寸法を変えたり材質感を変えたりモチーフのアレンジを行っても可能なリペインテッド(再絵画)の権利を保証する画作権を法律的に認める。
従来の絵画作品は創作者としての芸術家と製作者としての芸術家がl人に専属していた。 一品性のものであり過ぎたためヴァレリーカ時嘆に似た言葉で述べていたように最も古い型の労働者である画家の経済的自立のために、同じ絵を何回でも描けるような技術の改良
(他人により 10枚20枚の複製可能な描き方の)を提案している。※

(2)造形制作及び作曲活動における技術的可能性の実験が試みられる

①ピカソ祭「生きる悦び」このバレエ上演に際し上演中に特殊効果の部分があり秋山の詩(音声)とメトロノームの音のテープ上の合成が行なわれ、音響と造形作品と色光照明の効果が総合された。

②「実験工房第 5回発表会」における「オートスライド作品 J及び「テープレコーダーのための交響詩」の上演
スライド投影装置とデープレコーダーによる映像と音響の上演プログラムの同期を図る装置が東京通信工業(現 SONY)で開発されその装置によるマルチメディア作品の制作の依頼を受ける。一方秋山はテープレコーダーに録音される詩と音楽のテーフ上ての加工手法に基つく音響詩を提案した。すでに第1回発表の時からミュージックコンクレートの可能性と新しい櫛駒導入に積極句だった工房はマルチメディア型のソフト制作を行った。

③「バレエ実験劇場」
松尾明美バレエ団と実験工房のコラボレーションで行なわれ作曲に芥川也寸志と武満が参加。

④「神の固から谷底みれば」
日劇ミュージックホールと実験工房のコラボレーションが行なわれヴィトリーヌによる舞台装置と、スライド2面 映画l面の3面スクリーンによるマルチプロジェクションが行なわれる。

⑤「円形劇場形式による創作劇の夕」
演出家武智鉄二と実験工房のコラボレーションが行なわれ、シェーンべルグの「月に憑かれたピエロ」と三島由紀夫の「綾の鼓」の上演に協力し、とくに能や狂言のデザインを尖鋭化した北代と福島の舞台デザインと仮面や衣装が特色を生んだ。

⑥映画「銀輪」
新理研映画と実験工房のコラボレーションによる制作で、松本俊夫と円谷英二の協力によりシュールレアリスム風及と抽象映像のため特撮の映画デザインに工夫を重ねると共にフィルムの特殊処理を実験する。

⑦「ミュージック・コンクレート/電子音楽オーディション」
現代芸術研究所との共催により黛敏郎、柴田南雄、芥川也寸志などの参加による新しい時代の音響世界のデモンストレーションを行なう。

(3)この頃新しい音響についての理論的条件について考えていたこと

「オートメーションによる作曲」北代省三美術批評1956年1月号
ここで考えられている作曲は、コンピュータ・ミュージックの基本的原理を述べているもので、音楽表現にまつわる従来のいわく言い難い神秘性や、演奏家のクセなとについて新しい技術観の導入によって失なわれるものの是非を問うているのではない。ミュージック・ コンクレートや電子音楽の可能性を拓くための基本的条件を述へている。こうした北代の理論をもとに作曲家グループをはじめとする工房メンバーは討論を重ねていたのである。

(4)山口勝弘による「ヴィトリーヌ」(瀧口修造命名)の新しい空間造形 としての展開の可能性とその実践について

瀧口修造は次のように述べている。「一種の空間の音楽として鑑賞すればよいので、新しい建築の新しい装飾として推奨したいと思う。」
「海外の国際見本市の展示あたりに生かしたら面白いと思う。」
「現代のこうした芸術と建築を結ぶ機会ほど暖かな希望を抱かせてくれるものは、私にはありません。」
1954年以来3回にわたる銀座和光ギャラリーでの展示計画に第l回高村英也、第2回清家清、第 3回丹下健三により展示方法やデザイン計画に協力をえている。 またそれと平行して看板デザインやインテリアなと、への応用デザインも試みられている。

※これらの構想から約l年後、山口は「ヴィトリーヌ」という新しい表現手段の実験的制作を始める。その作品の構造からみて後に瀧口修造は「絵画とオブジの両棲類」と述べている。また山口は1953年「ヴィトリーヌ」の構造について「実用新案権」(No.1061) を取得している。

1978 CAYC

1978 CAYC Japan Video Art Festival Catalog

1978-CAYC-Japan_Video_Art_Festival_ページ_01

1978-CAYC-Japan_Video_Art_Festival_ページ_26

An Open Spirit

In the last five years, the Center of Art and Communication
(CAYC) has organized ten lnternational Open
Encounters on Video, according to the following list: I, at
the Institute of Contemporary Art, London, 1973; II,
Espace Cardin, Paris, 1974; Ill, Palazzo del Diamanti,
Ferrara, Italy, 1974; IV, CAYC, Buenos Aires, 1975; V,
lnternatlonaal Cultureet Centrum, Antwerp, Belgium, 1976;
VI, Museum of Contemporary Art, Caracas, 1977; VII,
Joan Miró Foundation, Barcelona, Spain, 1977; VIII,
Continental Gallery, Lima. 1977; IX, Alvar and Carmen
Carrillo Gil Museum, Mexico City, 1977; and X, which will
be held next May at the Sogetsu-Kaikan Building, Tokyo.
As their title indicates, these encounters are open, in
order to encompass all tendencies and authors, an
attitude demanded by video art itself. We believe that the
best explanation of the need for this spirit, and of the
scope of the medium, was formulated In February 1977,
during the Barcelona Encounter, by Katsuhiro
Yamaguchi, one of the most important creators of
Japanese video art and one of the 33 participants in CAYC’s
Japan Video Art Festival.
Yamaguchi said at that time:
“Some two hundred years ago a kind of open poetry
contents were held in Japan, with the purpose of having
a physical space turn into a communication of living art.
The coordinator initiated the encounter by pointing out
the essence of a theme, which was selected from among
the events of the corresponding season; for instance, the
first snow of winter, the light of summer, the sound of the
wind on a door.
“Not many people took part in those encounters.
Approximately thirty people gathered in a room and, over
the span of three hours, each one of them prepared
several poems, the sum of which, some two or three
hundred, formed a chain of the imagination and, later,
turned into a popular tradition or legend.
“Two centuries ago we did not have television or video
recorders, for which reason paper and brush were used.
Today we have the necessary means for an imaginary
presentation in real time: video art is the most useful of
those media. Through the years, the imagination of
mankind was captured by the artists, and ended in the
art objects. But, now, technology allows us to project
outside our mind the inner process of imagination.
“Video art makes this reconquest of the imagination
possible. It is within the reach of everybody. With it, the
poetry encounters of two hundred years can and must be reborn.”

(CAYC 1978 catalog, p. 3)