1999 CEAM (Center for Environmental Art and Media) 環境芸術メディアセンター

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CEAM 環境芸術メディアセンター(Center for Environmental Art and Media) 発足のお知らせ

拝啓時下ますますご清栄のことお喜び申し上げます。
私儀山口勝弘は、去る3月31日をもって神戸芸術工科大学を栄退致しました。
在任中は公私にわたり格別のご厚情を賜わり誠に有り難く厚く御礼申し上げます。
今後新たな組織により、環境芸術とメディアを結んだ領域を中心に活動を行なうため、個人オフィス・ロクス山口の名称変更を行ない、環境芸術メディアセンターを発足させます。
活動拠点はデジタルメディア研究機能のTOKYO Studio と環境芸術制作機能のAWAJI Studioとをネットワークで結び、多角的な分野のアート活動とデザイン活動を展開して参ります。
また長年勤務致しておりました櫻井宏哉は独立し、非常勤スタッフとなり、新たに岡本知久が常勤スタッフとして勤務することになりました。
今後とも私共への一層の御支援を賜りますようお願い申し上げます。

敬具

平成11年4月
株式会社 環境芸術メディアセンタ一
代表取締役社長 山口勝弘
プロジェクト推進室 笠置勇星
岡本知久
非常勤 棲井宏哉

1946-1949 安部公房:世紀ニュース

安部公房は1949(昭和24)年4月、関根弘、桂川寛、樗沢(瀬木)慎一らと若い芸術家のアヴァンギャルド芸術運動体として〈世紀の会〉を発足させた。〈世紀の会〉では会員紙《世紀ニュース》を発行し、ほぼ隔週、法政大学(飯田橋下車)第一校舎18番教室や第二校舎50番教室などで研究会を行なった。1950(昭和25)年秋には、ガリ版刷りの小冊子〈世紀群〉を発行した。その第1冊目は、花田清輝訳の『カフカ小品集』、2冊目は、鈴木秀太郎の小説『紙片(かみきれ)』であった。
(宮西忠正、「もぐら通信(第22号)」)

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法政大学の歴史(その87)「六角校舎と『世紀の会』」

戦後間もない1948年の秋のある日、多摩美術大学1年生だった私は、同級生の田原太郎と連れ立って東大赤門近くの喜福寺というお寺の山門をくぐった。お詣りではない。そこで「アヴァンギャルド芸術」の研究会が開かれている、と聞いたからである。
「研究会」というのは、その年の正月に、花田清輝と岡本太郎が核になって結成された「夜の会」に、少し若い世代の、安部公房や関根弘ら20代文学者のグループ「世紀」が加わって始められたものらしい。その辺のことを、当時付けていた日記を基にして綴った拙著『夢・現・記』の中から引用してみよう。

――その時わたしの見た情景は、およそ“前衛芸術”などとはほど遠い、抹香臭い須弥壇の前に30人ばかり得体の知れない連中が座っていて、なんだかうらぶれた感じのひとりの人物の話に聞き入っているところだった。
しばらくしてその人が椎名麟三だとわかったが、この集まりおよびその母体ともいうべき「夜の会」は、ほとんど公的な記録を残さなかったから客観的正確さは期し難い。

――という次第である。ともあれ、この会に関係した人の名を逐一列挙してみると、上記の他、文学では、「夜の会」会員の野間宏、埴谷雄高、佐々木基一、梅崎春生、中野秀人、小野十三郎。その他、田中英光、五味康祐、中田耕治、中村稔、森本哲郎、渡辺恒雄、いいだもも、柾木恭介など。
さらに、三島由紀夫や芥川比呂志の名があったとの証言もある。そして、後に美術評論家となった瀬木慎一や針生一郎。
美術家では北代省三、山口勝弘、福島秀子、池田龍雄、後で版画家の吉田穂高夫人となった井上千鶴子、今は絵の制作から離れて地域の美術教育や文化活動に精を出している村松七郎など。いずれも、その後の日本の芸術・文化に多大の足跡を残した人たちだ。
研究会は何の規制も設けず外に向かって開かれていたから、1回ぽっきりというのまで含めてその他いろんな人が出入りしていた。

ただし、この「アヴァンギャルド芸術研究会」は翌49年の4月に臨時総会を開いて再組織化を行い、名称を正式に「世紀の会」として発足した。手元にある5月1日付の『世紀ニュース』(No.3)によると、会長・安部公房、副会長・関根弘、記録書記・高田雄二、通信書記・平野(岡本)敏子、会計・河野葉子、会計監査・永田宣夫、管理人・ぶな沢(瀬木)慎一、理事・北代省三・村松七郎・藤池雅子・新貝博とあり、岡本太郎や花田清輝など一世代上の人たちは〈特別会員〉とされている。
会はその後も活発に活動を続けるのだが、会場は、喜福寺から時には東大の教室を借りたりしながら、やがて法政大学に移った。

これは、喜福寺が都合で借りられなくなったということで、法政出身の村松七郎が、福田定良先生にお願いして、その哲学教室を使わせてもらうことになったのである。六角形で背の高い建物の4階だったか、確か〈41番教室〉と呼ばれていたように記憶する。
以来、そこが月々1回乃至2回の割りで開かれた「世紀の会」の主要な〈研究・運動〉の場となったわけだが、会の活動は、場所をそこに移してから、常連の他に、入れ代わり立ち代わり新顔が見えて、ますます活気を帯びたようだった。その顔触れの中には後に岩波の常務になった石崎津義男、映画評論の小川徹などもいた。
当時、私はアルバイトの職場が神保町にあったので、しばしばそこから都電に乗って、ゴトゴトと法政大学のある市ケ谷の方へ九段坂を上って行ったのを思い出すことができる。

もっとも、「世紀」の中で〈絵画部会〉と称していた私たち美術関係者の大部分――その頃には福田恒太とか山野卓造とか西村悟とか、いつのまにか数も増えていた――は、その1年後の50年4月末、一斉に会を退き、美術関係で後に残ったのは、少し遅れて会に入ってきた桂川寛、勅使河原宏、大野齋治など数人であった。
残った彼らは、安部公房、関根弘、瀬木慎一らと共同し、今や高価な珍本となったガリ版刷りの小冊子『世紀群』を、その年の12月末までの間に精力的に都合7冊(他に『世紀画集』1冊)を刊行し、やがて、安部公房の所謂「発展的解消」を遂げるに至るわけだが、朝鮮戦争勃発当時の緊迫した政治状況と激しく擦れ合い揉まれながら2年近くも続けられた「世紀の会」の芸術運動は、決して無にしてはならないものであり、むしろ今日、新たに検証し戦後史の中に明確に位置付けられるべきではなかろうか。

(画家/池田龍雄)


GIANLUCA COCI: Yoru no kai e Seiki no kai: storie di avanguardia e rivoluzione nel Giappone dell’immediato dopoguerra
p. 529-550
http://opar.unior.it/1816/2/Oriente_Occidente_II.pdf


池田龍雄オーラル・ヒストリー 2009年2月11日
吉祥寺ルノアールにて
インタヴュアー:西澤晴美、坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2009年6月1日

坂上:絵の合評もあったようですが。

池田:それは時々岡本太郎が、描いたものを持ってこいっていうから、小さい絵をもっていってね、そこで見たり。それからときには東大を使ったこともあるんですよ。18番教室だったか、安部公房が東大出身だったしね。
出席は誰でもできるんです。だからいつも入れ替わり立ち代わりいろんな人がきた。三島由紀夫まで来たって言うし。僕は覚えてないですけど。野間宏、埴谷雄高、佐々木基一、梅崎春生など文学者が多い。椎名燐三、武田泰淳、そういう人達。絵描きは岡本太郎ひとり。その年の1月に「夜の会」っていうのが岡本太郎の家で発足してるんです。中心が花田清輝と岡本太郎。花田清輝が佐々木基一とかに声かけて。画家は岡本太郎ひとりだけ。岡本太郎がその年23年の夏に「アヴァンギャルド講座」っていうのをやってるんです。その講座を受けに来ていたのが、山口勝弘とか北代省三とか福島秀子とか。それで9月から始まる「アヴァンギャルド芸術研究会」にこないかって岡本太郎に誘われたらしい。僕はやや遅れて行った。だから僕が入ったときには山口君たちはすでに来ていたわけです。
最初は「アヴァンギャルド研究会」とは言っていなかったらしくて、「20世紀研究会」と日記には書いてある。それはね、安部公房なんかが「世紀グループ」っていうのを20代の文学者たちが集まって作っていて、そのグループに岡本太郎、花田清輝が合流してるんです。それで「20世紀研究会」って最初言っていたんじゃないですかね。それがいつのまにか「アヴァンギャルド芸術研究会」って名前になって。そのうちに翌年24年の3月頃に僕の日記の中に準備会の事が書いてあるんですよ。5月の1日の日付で「世紀の会」を作ってる。5月1日付の「世紀ニュース」っていうのがガリ版刷りで出来てる。そこに世紀の会の組織が記してある。会長安部公房、副会長関根弘。会計誰々、会計監査だれ。
それでね、そのとき(1949年5月)「絵画部」ってのを「世紀の会」の中に作ろうって事になって。「世紀の会」は文学の集まりだけども、そのほか絵画部ってのをつくったんです。だからそれはちゃんとした組織。会員証っていうのつくって僕も持っていると思いますよ。会費いくらっていう事を決めて。それで、ちょうど一年後の50年5月にね、僕らやめるんです。絵描きの殆どが辞める。辞めた理由はね、どうも研究会のテーマが文学にかたよる。報告も、しゃべるのは文学者が得意だし美術の問題はたまにしかないから段々詰まんないねってことになって、やめようや、となったんです。それで別にグループをつくった。それが「プボワール(pouvoir)」っていうんです。命名は北代さんかな。フランス語なんですね。可能性とか能力って意味もある。


池田龍雄インタビュー (1)聞き手:阪本裕文(聞き取り日-2011年2月22日)

阪本:時代背景的なところをお聞きします。池田さんがルポルタージュを始めるのが50年代なんですが、他のジャンルを見ても50年代は「記録」というのが重要なテーマになっていた気がします。

池田:それは〈アヴァンギャルド芸術研究会〉のあとに〈世紀の会〉というのがありまして、これは時代でいうと49年5月からです。〈アヴァンギャルド芸術研究会〉が始まるのは48年の9月からですが、僕がそこに入っていくのは10月からなんですよ。で、その翌年の49年、昭和24年の3月頃から準備が始まってね、5月には『世紀ニュース』っていうニュースを発表しているんですよね。〈世紀の会〉という名称にして、会員から会費を取って、というかたちになるんですよね。実際に会費は満足に集まらないんですけど(笑)。会長を安部公房にして、副会長を関根弘にして、会計を誰々にして全部役割を決めたりしましてね、きちんとした組織にするんですね。それで、その研究会が始まる時に集まっていたのは、〈アヴァンギャルド芸術研究会〉の中心になっていた〈夜の会〉の人たちです。花田清輝、佐々木基一、埴谷雄高、野間宏とかそういう人たち。ほとんどが文学者ですよね、絵描きが岡本太郎一人。そういう人たちは特別会員になるんですよ、〈世紀の会〉のときにね。研究会には、もっぱら花田清輝と岡本太郎が一番出てきていまして、喋ってもらったりもしましたけどね。中心はその頃の20代。関根弘が28か29歳で、安部公房が25歳くらいになっていましたかね。僕らは20、21歳とかそこらですね。そういうのが一年続くんですよ。49年の5月からね、50年の5月ですね。で、50年の5月頃に、僕ら絵描きの大部分が抜けちゃうんです。その直後に朝鮮戦争が始まります。6月ですよね。で、抜けて〈プヴォワール〉の会を作るんですよ。抜けたメンバーが僕、北代省三、山口勝弘、福島秀子、その少し前から〈世紀の会〉に顔を出していた山野卓造、福田恒太もいたと思うんですけどね。その少し前から他の人たちも呼び込んで、入ってもらって、16~17人いたんじゃないかと思うんですけど。それで研究会を始めるんですよね。〈プヴォワール〉の名称は北代さんがつけたんだろうと憶えていますけどね。集まるのも、最初は北代さんは結婚して間もなくで、高円寺に住んでいましたよ。そこを使って集まったりしています、最初はね。それから場所を移したりします。翌年が「アンデパンダン」なんですよね、そこに皆出品するんですよ。だけど、できた直後から朝鮮戦争になって、だんだん社会情勢が険しくなってくる。戦争の危機が感じられるような状態になった。僕なんかが、美術も社会的な問題と全く無縁ではないだろうという考え方がありましてね。だけど北代さんとか山口勝弘は、およそ社会的な問題に余り目を向けないんですね。もっぱら芸術の新しさを追求していくんだという考え方だったんです。ちょうど一年後の51年の3月でしたね。主立った数人が「辞めます」と言ったわけですよ。それで、〈プヴォワール〉も解散ということになったんですね。(著書『夢・現・記』を読みながら)1951年3月9日に、「たとえボードレールほどでなくても、僕もまた往々にして、享楽、名誉、権力に対して悪魔的な渇を覚える」、とあり「必ずしもスムーズに移行したわけではないけれども、私は徐々に当時の言い方でいえば芸術至上主義的な考え方から離れてゆき、結局3月末、プヴォワールを抜けた」と書いてあります。3月31日の日付には「今日の会合で辞めることにした、いても無意味だから」という記述があります。


「夜の会」について アートスケープ/artscape(大日本印刷株式会社)